古河市兵衛と足尾の出会い
のちに「銅山王」と呼ばれることとなる古河市兵衛は、天保3年(1833)、京都・岡崎村で木村長右衛門・みよの次男として生まれた。生家は大和屋という酒屋で、幼名は巳之助と称した。市兵衛が生まれたころには、生家は没落しており、豆腐の行商をするなど貧乏をしていたという。27歳の時、京都の豪商・小野組で番頭をつとめていた古河太郎左衛門の養子になって古河市兵衛を名乗る。
小野組では、市兵衛は生糸の輸出、米穀や蚕卵紙の取引などで商才を発揮して多大の貢献をする。明治になってからは、当時「鉱山屋」として知られていた岡田平蔵と組み、明治5年(1872)ごろから、官許を得て東北の阿仁・院内・尾去沢などの鉱山経営に参加、鉱業のおもしろさを実感していた。明治7年には岡田が没したので、尾去沢を除く阿仁・院内の経営は小野組が引き継ぐこととなり、市兵衛はその責任者となったのである。
ところが、同年、明治政府の為替政策の変更によって、小野組は一朝にして破錠瓦解する。ちなみに、同業者の三井組は、番頭・三野村利左衛門が井上馨など政府人脈から情報を得ており、この危機を逃れることが出来た。
市兵衛も、生糸の海外取引を通して、大蔵省租税頭であった陸奥宗光(1844~97)や同じく租税正の渋沢栄一(1840~1931)と知己になり、肝胆相照らす仲となってはいた。彼は主家を襲ったこの事件で、事業の安定には政府要人との人脈づくりが肝要であることを痛感したというが、陸奥・渋沢との関係は、のちに古河グループの形成に大きな影響を与えることとなる。小野組倒産後の事業整理のなかで、市兵衛は私財をなげうって、渋沢が創始したばかりの第一銀行が共倒れとなることを防いだ。これによって、第一銀行は窮地を脱して発展を続け、両者の関係はより昵懇のものとなった。
倒産の結果、阿仁・院内両鉱山は政府に没収されたが、市兵衛は鉱山経営をあきらめきれず、第一銀行の援助と相馬家家令・志賀直道の融資によって新潟県草倉鉱山の払い下げを受ける。古河名義でこの草倉鉱山の操業を開始したのが明治8年11月で、それが成功して、莫大な利益をあげることができた。古河財閥の興りが明治8年とされる所以である。
市兵衛は「運・鈍・根」を身上として、持ち前の信念と強運で古河財閥の創始者として日本経済界に名を残すこととなる。その基礎をつくったのが、この草倉鉱山につぐ、明治10年の足尾銅山への進出であった。

【1】正面の山が備前楯山である。画面左側の沢が本口沢で、沢と山腹を横に走る山道のクロスするあたりに本口抗があった。そこから鉱石を運ぶ、簡易鉄道・ドコビールの軌道が見える。
(明治28年以前撮影)

【2】画面右手中央に明治初期の本山の事務所が写っている。そのやや左手奥の煙突は子持沢(こもちさわ)の精錬所のもので、ここは古河が本山に最初につくった精錬所だった。
(明治17年以前撮影)