足尾銅山は、栃木県西部の渡良瀬川上流に位置し、江戸幕府成立後の慶長15年(1610)に発見された。当時の領主は日光座禅院座主であり、その許可を受けて採掘と製錬が行なわれ、翌16年には、老中で前橋藩主の酒井雅楽頭を通じて、試験的に製造した問吹銅を幕府に献上した。ちょうど、のちに第3代将軍となる家光の着袴式が行なわれる年にあたったことから、めでたがられ、幕府が直接支配する直領鉱山とされたのである。
以後の60~70年間が、江戸期における足尾銅山の全盛期であった。毎年の生産高は1300~1500トンにものぼり、江戸城・芝増上寺・上野東照宮や日光東照宮の瓦はすべて足尾の銅でつくられたという。幕府は銅の輸送のために、特に足尾から利根川の前島河岸まで銅山街道(あかがね街道)を設け、そこから江戸の御用銅蔵まで舟で運ばれた。延宝4年(1676)からは長崎・出島を通じてオランダや中国に輸出され、貴重な外貨を稼いでいる。
そのころの足尾は「足尾千軒」と呼ばれるほどの賑わいをみせ、吹床主12軒、銅山師400人を数えた。幕府の収益も大きく、開業から元禄期(1688~1704)までのおよそ80年間で総額30万両あまりをあげたという。しかし一方で元禄期に入ると、乱掘のためその生産量は大きく減少する。さらに、銅をつくるための燃料や還元剤に大量の薪や木炭を必要としたから、近隣の山は荒れ、禿げ山となり、その結果発生した洪水によって足尾の町は大きな被害をこうむり、銅の発掘も打撃を受けた。このため、銅山師たちはたびたび幕府に山元救済を訴えた。たとえば、寛保元年(1741)には鋳銭製造の許可を申請して、翌年から5ヶ年間、寛永通宝を鋳造している。その枚数は2億枚あまりといわれ、背面に足尾の「足」字が鋳印されていたため「足字銭」と称されて、江戸・関東地区を中心に流通した。鋳銭が一般に「お足」と呼ばれるのは、この足の鋳印にあるという説も残っている。
その後も足尾の衰退は進み、文化文政期(1804~30)の初めには産出量がゼロにちかくなり、弘化元年(1844)ごろには休山状態に追い込まれてしまった。


明治中期を代表する写真師・小川一真が撮影した古河市兵衛像。頭にはまだ丁髷が見える。小野崎一徳にもこれと酷似した写真がある。足尾歴史館蔵。