古河市兵衛のもとに足尾銅山譲渡の話が持込まれたのは明治9年の末である。
江戸幕府が崩壊し明治になると、政府は殖産のため鉱山のすべてを接収して官営にした。足尾銅山も工部省のもとで調査が行なわれたが、明治5年、民営移行の方針が出て、疲弊した状態のまま銅山師に払い下げられた。多くの銅山師が挑戦するが好転がみられず、なかば見捨てられた状態で、このころは福田欣一が経営していた。しかし産銅は低迷を続け、福田が経営資金に窮した結果の譲渡話しだった。それを市兵衛が手に入れたのである。
当時、足尾鉱区は地表に蜂の巣のように掘り穴があり、廃山同然であった。この鉱山を譲り受けることについては古河家のなかにも異論が多かったというが、市兵衛は「あの山の下には大直利(富鉱)がある」と反対を押し切って、2万円あまりの大金を支払って入手した。明治10年のことである。その際、草倉鉱山の成功もあって相馬家から半額出資を仰ぎ、明治13年からは渋沢も参加しての三者による共同経営となる。その後、明治19年には相馬家、21年には渋沢との契約が相次いで解除され、それ以降は古河の独力経営となった。
足尾に進出した当初、市兵衛は独自に操業する下稼人から銅を買い上げる方式をとったが、赤字経営が続き、草倉鉱山の利益で補填する状態であった。
彼は、小野組時代から銅山経営の経験がある木村長七や浅野幸兵衛・鈴木誠介などを足尾に送り込んで再生をはかるとともに、共同経営者の渋沢栄一や日本鉱業界の先駆者である大島高任(1829~1901)の協力を得て、欧米の先端技術の導入とそれを活用できる人材を集める。
明治14年には運良く旧坑・鷹の巣坑で直利を掘り当て、15年には本口坑の開坑にとりかかり、16年に大鉱脈を発見した。「横間歩」と呼ばれるこの大直利は足尾銅山隆盛のもととなるものであった。明治18年には阿仁・院内両鉱山を政府から払い下げてもらい、そこにあった近代設備と人材を、草倉鉱山のものに加えて足尾に注ぎ込んだ。鉱石の産出量が増加するなか、明治17年には直利橋製錬所を新設し、18年には本山・有木坑、さらに小滝坑の開鑿を開始する。
銅生産量も明治10年には46トンにすぎなかったものが、17年には約3000トンと日本一の産銅量となり、18年には4000トン超えるにいたったのである。
東京・浅草で写真館を営む江崎礼ニの門下生・小野崎一徳(1861~1939)が、古河市兵衛の招きによって初めて足尾に足を踏み入れたのはちょうどこのころ、明治16年のことであった。以後、一徳はその死の直前まで足尾銅山の消長を記録し続ける。

【5】簀子橋の出張所。江戸時代の旧抗があり、そのころの吹床(製錬所)や銭座も近くにあった。古河も当初は採掘したが、のちに出張所を置いた。現在の渡良瀬鉄道・通洞駅の隣地にあたる。
(明治28年以前撮影)

【6】明治17年に採用された、本山・本口抗のドコビール鉄道。画面中央の下端近くに、その第2ステーションがある。右奥に見える山が、備前楯山の頂上である。
(明治16~20年撮影)