鉱石や石材を採掘するための機材としては、昔から鑿とハンマーが使用されていた。
岩石に孔をあけ、その中に火薬を入れて爆破するいわゆる「発破」方式には、1613年、ドイツ・フランスベルク鉱山で初めて実施された。日本の慶長18年のことである。
記録によれば、岩石に孔をあける鑿岩機の発明は、1813年、英国のトレビシックがピストンドリルに蒸気動力による回転力を利用したのが最初とされている。一方、鑿を蒸気力で上下に落下させる鑿岩機を発明したのは、ミシンで有名なシンガー兄弟であり、1838年のことだった。それを圧縮空気で動かす空気動鑿岩機に発展させたのが、1844年、英国のブルントンである。その後、1851年、米国のファウルが圧縮空気式鑿岩機の特許を取得する。

大正時代、足尾銅山の採掘風景
1866年、スウェーデンのノーベルが爆薬を発明したのを契機に、米国のバーリーが先のファウルの特許を買い取って改良し、米国で最初の空気打撃式鑿岩機の実用化に成功した。1871年にはサンドビック社やインガソル社も鑿岩機の製造を開始するなど、欧米各国で実用化が加速した。
日本で最初に鑿岩機を使用したのは官営佐渡金山である。明治9年(1876)にインガソル社のロックドリルが採用されたといわれている。
明治15年には、官営阿仁鉱山でシュラム式鑿岩機が使用された。古河市兵衛が阿仁鉱山の払い下げを受けることにより、明治17年末ごろには、この鑿岩機が足尾銅山にも持ち込まれることになる。
手持ち式鑿岩機が開発されたのは明治34年、フロットマン社が最初であり、サンドビック社やインガソル社がそれに続いた。
しかし、外国製の手持ち式は大きいので、日本人の体格に適した小型のものが足尾工作課主任・川原崎道之助によって開発された。外国の機械を改良し、性能を向上させつつ小型化するという日本人の製作風土というものは、この時代にもあったことがわかる。この鑿岩機は、製造されたのが大正3年(1904)であったことから「足尾式3番型」と名づけられた。以後も、「足尾式」なるものの改良は続けられて、現在でも古河の系列会社から世界に向けて製造・販売されている。
足尾銅山は、鑿岩機においても先駆けの地であった。

「足尾式」と呼ばれた手持ち式の鑿岩機