陸奥の次男・潤吉が、当時まだ実子のなかった市兵衛の養子となったのは明治6年のことである。古河家には13年に入家している。
米国留学から明治25年に帰国後、潤吉は足尾銅山に勤務した。30年の鉱毒予防大工事に際しては、渋沢栄一の第一銀行に資金援助を求めて責任者として完工にこぎつけるとともに、古河の事業を見直して会社制度として専務理事に就任する。明治36年の市兵衛の没後、二代目として社業を支えたが、特に日光・大谷川の水力発電計画を実行、日光精銅所において電解・製線を行なって現在の古河電工の基礎づくりをしたことが特筆される。
潤吉は、明治38年には古河鉱業会社を設立してその社長に就任した。また、同年1月、市兵衛の実子であった義弟・虎之助(1887~1940)を自身の養子とし、その年の12月、わずか36歳で死去した。
この二代目・潤吉、三代目・虎之助の社長時代に、2年間ほどではあったが、副社長の職にあったのがのちに首相となった原敬(1856~1921)である。明治38年4月2日の彼の日記には「余は副社長となり、潤吉社長となる。但し潤吉病気に付余は一切の事を代表処理する事となせり」とあり、当時の古河側の苦境がうかがえる。原は陸奥宗光の知遇を受け、農商務大臣時代の陸奥に仕えて秘書官をつとめていた。市兵衛の人脈づくりがここにも活きていたといえよう。なお、古河虎之助の夫人は西郷家から迎えられている。

明治41年の幹部たち。第2列目中央が3代目・古河虎之助、その向かって左が近藤陸三郎、右が木村長七、左うしろに山口喜三郎の顔が見える。
撮影者不明。