日本の近代化は、江戸幕府の鎖国政策によって欧米より200年ほど遅れたといわれるが、維新開国とともに産業革命で完成された技術をいち早く取り入れて追いつくことになる。その縮図のひとつが足尾であり、小野崎一徳の写真によってそれを見ることができる。
幕末から明治期に日本に滞在し、日本の近代化の様子を見つめていた著名な英国外交官のアーネスト・サトウが、足尾銅山を見学した時の印象を明治19年7月31日の日記に残している。
「日本は西洋文明を丸ごと導入する能力をもつ、アジアにおける唯一の民族である。」
このサトウの足尾行きは古河市兵衛が陸奥宗光の帰朝祝いを同地で開いたためであり、陸奥夫妻、渋沢栄一、後藤象二郎などが同行していた。なお、サトウはその後、足尾で起こった鉱毒事件の情報を知っていて、明治30年には当時の農商務大臣であった榎本武揚に現地視察を勧めており、問題の処置についても陸奥や市兵衛に助言を与えていたという。
鉱山事業は産業の原点であり、土木・建築・機械・電機・化学と現在は多角化した技術領域を当時の鉱山技術者はすべて総括していた。足尾銅山のみならず、当時の各鉱山からは現在の「技術立国」につながる技術が生長して、新しい企業が育ったのである。
足尾銅山の系譜からは、古河電工・富士電機・富士通・横浜ゴム・日軽金などが誕生した。人脈からは、東芝・日立・ソニーにつながる、それも単に技術陣だけでなく多くの経営陣が巣立っている。
古河市兵衛は明治36年4月5日、胃潰瘍で72歳の生涯を閉じた。現在は東京・麻布の光林寺で眠っている。
彼の葬儀は足尾でも執り行われ、図版46はその様子を写したものである。式場となった専念寺は明治22年に建てられたが、昭和15年(1940)の大火で焼失し、今は往時の面影はない。
市兵衛は古河の会社ロゴ<やまいち>マークを定めた。それは「山一番」ではなく、「山一筋」という意味を込めたものといわれている。直筆の書簡や愛用の煙草入れなどの市兵衛の遺品は、現在、ご子孫である木村家の好意で足尾歴史館に寄託され、その「山一筋」を検証する小野崎一徳の写真とともに展示されている。