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楠木正成騎馬像

東京三大銅像の一つ楠木正成騎馬像を見てきました。
本当に力強い銅像です。躍動感溢れる馬の筋肉、楠公が先に臨む強いエネルギーを感じました。

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その他の東京三大銅像は、靖国神社の大村益次郎像(1894年) 上野恩賜公園の西郷隆盛像(1898年)です。

楠木正成の生涯
河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれたと思われる。前半生はほとんど不明で、日本史上これほど有名でありながら出自がこれほど謎に包まれた人物はほかにいないと言われる。様々な歴史家による懸命な研究努力にも拘らず、正成が確かな実像として捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどにしか過ぎない。

1331年(元弘元年)臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として史料に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の流通ルートで活動する「悪党」とよばれる在地の豪族であったと考えられている。または土豪。 この年に後醍醐天皇の挙兵を聞くと下赤坂城にて挙兵(赤坂城の戦い)し、湯浅定仏と戦う。後醍醐と正成を結びつけたのは、伊賀兼光、あるいは真言密教の僧である文観と思われる。後醍醐が隠岐島に流罪となっている間にも、大和国(奈良県)の吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して幕府の大軍を相手に奮戦する。(この際に有名な糞尿弾を使用している) 1333年(元弘3年/正慶2年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。

後醍醐天皇の建武の新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となる。建武の新政においては正成は後醍醐の絶大な信任を受け、結城親光、名和長年、千種忠顕をあわせて「三木一草」と併称され、「朝恩に誇った」とされる(太平記の記述)。1335年の中先代の乱を討伐に向かった尊氏がそのまま新政に離反し、尊氏追討の命を受けた義貞が箱根・竹ノ下の戦いに敗北して足利軍が京へ迫るが、北畠顕家らと連絡して足利方を京より駆逐する。翌年に足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐に新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが献策は後醍醐に容れられず、1336年(延元元年/建武3年)に義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)で足利直義の軍と戦い敗れて、弟の楠木正季と刺し違えたとされる。法名:霊光寺大圓義龍卍堂。

彼の息子である小楠公こと楠木正行(まさつら)を筆頭に、楠木正時、楠木正儀(まさのり)らも正成と同じく南朝方について戦った。


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1970年9月29日
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2007年05月10日 12:50に投稿されたエントリーのページです。

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