Mr.Bike 足尾特集 6月号
Mr.Bike 6月号に足尾特集の記載がありました。
俺たちの旅 「そうだ、足尾へ行こう!」 (前編)
足尾銅山観光のHさんから情報を頂きました。貴重な情報ありがとうございます。
雑誌記載後の観光客に、バイカーが増えた気がします。



« 2007年06月 | メイン | 2007年08月 »
Mr.Bike 6月号に足尾特集の記載がありました。
俺たちの旅 「そうだ、足尾へ行こう!」 (前編)
足尾銅山観光のHさんから情報を頂きました。貴重な情報ありがとうございます。
雑誌記載後の観光客に、バイカーが増えた気がします。



Mr.Bike 7月号に足尾特集の記載がありました。
俺たちの旅 「そうだ、足尾へ行こう!」 (後編)
後編で終了は、少々寂しいですが、まだまだ足尾の奥は、深い!
幾度と、足尾を探求してください。



実は、火薬庫跡を見たことがありませんでした。
小滝にせっかく上るので、撮影しに来ました。
が・・・・
これは、火薬庫跡の入り口で、この奥に火薬庫跡があると言うではありませんか。
まずは、入り口で許してください。後日撮影してきます。
火薬庫跡は、今年重要指定文化財に指定される予定です。

それにしても、重みを感じる建物です。


壁の表面です。 この錆具合が歴史を深さを物語っています。

昭和29年に、小滝抗が廃止され、小滝に住んでいた人々は、思い思いに山を去っていきました。
盛んであった小滝を偲び昭和39年に碑をたて「小滝会」を結成したそうです。
私の母も小滝生まれです。
ここまでは、狭い道が続きますが、小滝の里は公園のようになっています。
ちょっとした休憩、お弁当、記念写真の場として最適です。


小滝の里の正面に足尾銅山の小滝製錬所・選鉱所 跡があります。
小滝抗が開抗され、この地に製錬所(明治30年廃止)・選鉱所(大正9年廃止)が設けられた。
往時のレンガの跡が偲ばれる。



抗夫浴場跡です。
小滝坑の抗夫たちは、仕事を終えるとなにより先に、身体の汚れを流し疲れをいやすために風呂に入った。さぞ四方山話(よもやま)で賑わったであろう。
直径4m前後である。


明治20年に銅山便道として開削された小滝路に、唯一残された銅製の橋(長さ22.6m巾3.05m)で、大正15年に架設された。



大正期に撮影された写真

小滝抗跡(日光市指定史跡)
明治十年(1877年)足尾銅山経営を始めた古河市兵衛は、小滝の旧抗(250m先までの堀止)を利用し、
明治18年(1885年)7月にこの小滝抗を開抗しました。
明治26年11月には本山抗(間かく3005m)と貫通し、次に立抗で通洞抗(間かく3276m)とも連絡するようになり備前楯山にむかって3抗から採鉱がすすめられました。
この開抗の功労者は笈川清七と木部末次郎であり、当時下駄づくり小屋が一軒しかなかったこの土地に、小滝抗を中心に銅山の施設と集落が出現し、大正年間には、人口1万人余となりました。
昭和29年(1954年)銅山の経営合理化により小滝抗が廃止されるとともに銅山の施設が全部撤去されて今日に至っています。
当時の名残を小滝抗と前岸のさく岩機練習のノミ跡にとどめています。小滝坑の小抗は、旧抗の1つです。
昭和51年3月15日 日光市教育委員会


大正期に撮影された小滝抗

小滝小学校・第3中学校 跡
看板の横から階段がありました。
母の母校とも聞いていて、興味深深で散策しました。

この階段を2・3回折り返すと、学校の跡です。


耳を澄ますと鳥の鳴き声と、虫の音だけ・・・・・
静寂のなかに、大正・昭和の小滝小学校・第3中学校の賑わいを想像して見ました。




熊が出る事もあるそうです。
気おつけて散策下さい。
足尾 ますや肉店のコロッケ
子供のころよく、コロッケとハムカツにソースをかけてもらって、立ち食いした記憶がよみがえる。
熱々をはふはふ言いながら食べるのが最高です。
※熱々出来立てを、何もつけづに食べてみる。ジャガいもの甘みとねっとリ感とラードのコクがたまらない。



渡良瀬渓谷鉄道 通洞駅前 日光市足尾町松原6-2 TEL0288-93-2308
足尾に来たらチャレンジ必須。
国内唯一の水陸両用バスの、認可が下りなくてやきもきしている様だ。
この企画、なんといっても、面白い!
官民共同の観光開発の起爆剤として期待している。
ただ、この日光の観光産業を、新たに確立していくキーワードは、そこに含まれているのだろうか?
技だけではない、心技体のバランスもって取り組む事が必要であろう。


【152】荷倉峠から広河原を望む。索道は大正10年に開通した広河原線で、高低差が大きかった。索道の支柱は木製で、なかには高さ30メートルを超えるものもあった。
(大正期撮影)

【153】円覚停車場での吉村萬治郎足尾鉱業所長。チョッキ姿が林業所巡視中の吉村所長である。画面左端には、角材を搬器で運んでいるところが写っている。
(大正12年撮影)

【154】根利山で伐採された木材を受け入れる足尾側の銀山平には、小滝坑の廃石でつくられた平地の上に製材所が建てられた。写真はその銀山平製材所の全景である。

【155】「東洋一の製材所」とうたわれた銀山平製材所で威力を発揮した電気ノコギリ。日本で最初に導入されたものといわれる。
(明治後期撮影)

【156】明治39年ごろの山神祭。砥沢の社は明治36年、平滝では39年ごろに平河線開通と同時に建立されたようだが、その春の祭りは根利山の最大の行事だった。
(明治39年ごろ撮影)

【157】明治40年の砥沢の山神祭。全面に檜の葉っぱを挿した飾り物の鳥居は祭りのたびに建てられた。そばに見えるのは林業所幹部の役宅である。
(明治40年撮影)

【158】山神祭の飾り物。春の祭りは当初4月25・26日だったが、昭和に入って4月29・30日があてられた。写真は林業所前の倉庫につくられた飾り物である。
(明治後期撮影)

【159】図版【158】と同じ時の写真と思われる。砥沢の平河線停車場付近につくられた飾り物で、盛大な祭りの様子がうかがえる。
(明治後期撮影)

【160】砥沢の小学生で編成された、山神祭の少年鼓笛隊。そろいの制服や楽器類は古河の支援によった。
(明治後期撮影)

【161】砥沢の山神社と組頭などの幹部たち。山で働く人々にとって山神社は心の拠り所だった。なお、明治42年ごろになって山神社と並んで稲荷社が祀られた。
(明治40年ごろ撮影)

【162】山神祭では、富山出身による獅子舞の奉納が恒例だった。獅子頭・太鼓・衣装などは同地出身の組頭が郷里から取り寄せ、砥沢・平滝の両方にあった。
(明治後期撮影)

【162】山神祭では、富山出身による獅子舞の奉納が恒例だった。獅子頭・太鼓・衣装などは同地出身の組頭が郷里から取り寄せ、砥沢・平滝の両方にあった。
(明治後期撮影)

【163】山神祭の仮装行列。画面左手に写っているカメラマンは、小野崎写真館の技師と思われる。
(大正4年撮影)

【164】「足尾鉱業所調度課」の法被を着た彼らが、山神祭の飾り付けを担当した。その費用は古河の負担であった。
(大正10年撮影)

【165】明治44年ごろ、平滝小学校の運動会。砥沢と平滝に小学校が開校したのは明治42年8月で、校舎の建設から諸経費、教員の給料まですべてが古河の負担だった。
(明治44年ごろ撮影)

【166】砥沢の倶楽部で開かれた義太夫大会。明治末期から大正にかけて、人々は義太夫に熱中した。この大会の女性太夫や伴奏者は群馬県の沼田から招かれている。
(明治後期~大正初期撮影)

【167】山神祭での火消し組。毎年、祭りにあわせて消防用の押しポンプの検査が行われた。写真は、平滝の火消し組である。
(昭和初期撮影)

【168】根利山の夏の行事は7月15・16日の盆踊りである。砥沢でも広場に櫓を建て、人々は八木節にあわせて踊った。そろいの花笠や襷は古河の提供だった。
(昭和2年撮影)
小野崎一徳の写真は失われたものが多い。それを補ってくれるのが、彼の写真を使った一群の絵葉書である。
その量は有名観光地をしのぐほどで、足尾が観光のメッカであったことも教えてくれる。
事実、この地を訪れた文人も多い。絵葉書とあわせてゆかりの人々を紹介する。

「コンバーター之夜景」
(大正期撮影)
明治期の足尾銅山の絵葉書が数多く残っている。古絵葉書の市場においても、その数の多さは一流の観光地並みである。かつて絵葉書は映像を伝達する手段の一つであったため、各地の鉱山や産業施設においても盛んに発行されていた。しかし、足尾銅山の絵葉書の種類・量を上回るものは見あたらない。現在、私の手元にも約600枚前後が集まっている。
一般に、絵葉書の写真の撮影者はほとんどが不明である。しかし足尾の場合は、銅山御用の小野崎一徳が銅山内外の撮影を一手に引き受けていた。事実、「小野崎写真館」のクレジットが入った絵葉書も残されており、足尾関連のものはすべて一徳の撮影とみてよい。
当時、カメラは非常に高価であり、専門的な知識を必要とするところからも、現在のように誰もが手軽に写真を撮影することはできなかった。また、写真の出版は経費がかかり、ましてや鉱山の風景が一般の書籍で取り上げられることなどはほとんど考えられなかったのである。
そうしたなかで大量に残された足尾銅山の絵葉書は、往時の姿を伝える史料といえる。しかも、プリントや写真集で見られない、いわば失われた一徳の写真も使用されていて、その意味でも貴重な存在である。
本書に一徳の絵葉書を収録するにあたってはできるだけ多くのテーマを紹介するようにつとめたが、全体で見ると、枚数や種類の多さで目につくのはベッセマー転炉の絵葉書である。明治26年(1893)に世界でも2番目に建設されたこの転炉は、新技術を導入して近代化を推し進めた足尾銅山の象徴といえる存在であった。また、激しく火を吹き上げる作業風景が写真家の創造意欲をかきたてたのかもしれない。
鑿岩作業や見張り・昇降機(エレベーター)などの坑内風景、抗口と電気電車、鉄架空索道(空中ケーブル)、本山製錬所の外観なども多い。特に製錬所の風景は、沢山の種類が発行された絵葉書セットのなかにかならず入っていたようである。
また、手元の絵葉書の9割以上が銅山関連だが、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』にも登場する足尾の名所・庚申山や「足尾八景」「野州足尾銅山渡良瀬の桜」と題した風景写真のシリーズもわずかながら残されている。風景写真に地元俳人の句を添えたものもあって、かつての足尾で俳句などの文化活動が盛んであった時代を彷彿させる。
小野崎写真館では観光用だけでなく、行事記念や広告用の絵葉書の製作も引き受けていたようだ。図版【221~224】がそれで、大和屋本店の絵葉書である。絵葉書が入っていた袋から、通洞近くにあった「和洋御料理」の店とわかる。
なお、足尾の絵葉書の発行元は、地元の出版社・書店・会社・小野崎写真館自身など多種多様で、東京などの印刷会社や問屋のものもある。
栃木県立文章館開館20周年記念企画展
「もの」づくりにかけた先人の想い
ー栃木の近代産業と交通の発達ー
2ページ抜粋
明治時代における産業の近代化とその特色
足尾銅山
本県の近代工業を代表するものとして、足尾銅山と足利織物があげられる。両者は当時、外貨獲得に不可欠な産業として位置づけられていた点に共通点がある。
このうち足尾銅山は明治時代の中頃には、欧米の最先端の機械技術を積極的に導入した結果、我が国第一の銅山として世界的にも知られるようになるが、古河市兵衛の単独経営的色彩が強く、国及び中央財界とのむすびつきが色濃く反映されている点で、他の産業とは性格を大きく異にしている。

「もの」づくりにかけた先人の想い P26より
古河市兵衛のとなりに掲載されているのが先代の小野崎一徳です。

「もの」づくりにかけた先人の想い P27より

「もの」づくりにかけた先人の想い P28より

「もの」づくりにかけた先人の想い P29より

「もの」づくりにかけた先人の想い P30より

「もの」づくりにかけた先人の想い P31より

艦上戦斗機「足尾号」 昭和19年
太平洋戦争に勝つために足尾町民の献金でつくった艦上戦斗機「足尾号」

目で見る足尾の100年 第5集より
「足尾号」の文字が確認できる。

当時の標語
「一機でも多く飛行機を!」
「進め1億の火の玉だ!」
ラーメン貴族のカルビラーメン
ご覧のとおり、辛いラーメンです。
テグタンスープ(鱈から取ったスープ)が特徴で、辛いですが甘みのあるスープで、
それでいて際立つのがなんといっても「カルビ」、これは最高ですね!
ゴロゴロした肉が、心地よいおいしさと一緒に溶けちゃいます。
夏ばてする季節、これから元気が出ないときには、このラーメン。
汗だくになりながら食べてほしい一杯です。


住所: 日光市森友172-2
TEL: 0288-22-1811
FAX: 0288-21-7975
営業時間: 11:30~22:30
14:30~17:00(休憩)
22:30(ラストオーダー)
土日祝日は休憩なし
ランチタイム: -
定休日: 木曜日
駐車場: 20台
席数: 31席
日本カモシカとの遭遇しました。
田舎は、これがあるから面白い!
足尾銅山観光から対面の山である。驚くのは5分くらいの時間、ジーとこちらを観察しているようだ。
カメラを向けても落ち着いた様子。(20メートル近く距離があった為であろう)
日本カモシカ乱獲が進み3000頭まで減少したため1955年、特別天然記念物に指定された。新潟県笠堀の生息地は天然記念物に指定されている。中国地方では絶滅、四国、九州でも絶滅に近い状態となっている一方で、近年では個体数が増加し、生息域を平野部まで広げていることから、食害による林業や農業への被害が問題になっているところも多い。現在の生息数は7万頭から10万頭と推測されている


私の行きつけのお店が新聞に掲載されました。
珈茶話へは、中学生のころから通い、早へ・・・・25年! 途中東京へ・・・・
本当にいい店です。
ここでイベリコ豚の生ハムとアンチョビのピザをつまみに飲むのが大好きです。
もちろん、マスターや、ちびマスターとの会話も弾みまくります。

お店のHPは、
http://www.kashiwa.cc/