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古河橋のハーコート社の銘板を撮影してきました。
古河橋を撮影してきました。で紹介しましたが「ハーコート社の銘板」の画像が有りませんでしたので追加しました。
年代を感じる銘板は、それだけで絵になります。
足尾銅山を世界遺産に 11/25 シンポジュウムが開催される!
場所:日光市足尾市民センター
日時:19年11月25日(日) 13:00~15:45
基調講演
演題:足尾銅山の世界遺産の価値 -日本の近代化・産業化と公害対策の起点-
講師:永井 護 氏 (宇都宮大学工学部教授・工学博士)
アトラクション:足尾石刀節
パネルディスカッション:
コーディネーター:若林 春美氏(下野新聞社編集委員)
パネラー : 河東 義之氏(千葉工業大学教授・工学博士)
: 小野崎 敏氏(日鉄鉱業株式会社名誉顧問)
: 近藤 功氏(富岡製糸場世界遺産伝道協会会長)
: 永井 護氏(宇都宮大学工学部教授・工学博士)
市議会からこんにちは 銀山平キャンプ場(足尾)が表紙掲載10月25日発行 NO.6
紅葉がピークを迎えています。
銀山平キャンプ場(足尾)
銀山平キャンプ場は、足尾地域の西部に位置し、バンガロー、テントサイトや生産展示直売所などを備えたキャンプ場です。隣接する「国民宿舎かじか荘」では、日帰り入浴ができます。なお、紅葉のみごろは10月下旬から11月中旬です。(キャンプ場の営業期間は4月1日~11月30です。)
市議会からこんにちは表紙うより
今市JC11月例会 「いってみっけ日光」で使用する、足尾茶屋の番傘が出来ました。
見てビックリのクオリティーの高さです。H君すごい!そしてありがとう!
明日の本番が楽しみです。
制作してくれたアーティスト Hくん!(私と同じ足尾出身)
足尾銅山で採掘された鉱石 黄銅鉱 NO.1
黄銅鉱(おうどうこう)は銅の硫化鉱物の一つ。英名である「キャルコパイライト」は、ギリシャ語で銅を意味する「キャルコ」と、火を意味する「プリテス」とが組み合わさったもの。「黄銅」鉱という名前だが、これを精錬して黄銅(真鍮)をとる訳ではない。銅と鉄、硫黄からなり、化学組成:CuFeS2で表される。微量の金、銀、錫、亜鉛などを含み、少量のニッケルやセレンを含むものもある。最も重要な銅の鉱石鉱物。色は普通、真鍮様の黄色であるが、かなり黄色味の薄いものも珍しくは無い。そのようなものはしばしば黄鉄鉱と見分けるのが難しい。金属光沢を持つ。表面の色は時間とともに変わりやすく、黒みを帯びていく。条痕色は緑黒色。外見は黄鉄鉱と似るが、黄鉄鉱よりも黄色味が強い傾向があることや条痕色により区別できる。
足尾銅山で採掘された鉱石 黄銅鉱 NO.2
黄銅鉱(おうどうこう)は銅の硫化鉱物の一つ。英名である「キャルコパイライト」は、ギリシャ語で銅を意味する「キャルコ」と、火を意味する「プリテス」とが組み合わさったもの。「黄銅」鉱という名前だが、これを精錬して黄銅(真鍮)をとる訳ではない。銅と鉄、硫黄からなり、化学組成:CuFeS2で表される。微量の金、銀、錫、亜鉛などを含み、少量のニッケルやセレンを含むものもある。最も重要な銅の鉱石鉱物。色は普通、真鍮様の黄色であるが、かなり黄色味の薄いものも珍しくは無い。そのようなものはしばしば黄鉄鉱と見分けるのが難しい。金属光沢を持つ。表面の色は時間とともに変わりやすく、黒みを帯びていく。条痕色は緑黒色。外見は黄鉄鉱と似るが、黄鉄鉱よりも黄色味が強い傾向があることや条痕色により区別できる。
足尾の舟石線を走りました。NO4 佐藤 信淵 在住の地
佐藤 信淵(さとう のぶひろ)1769~1850(明和6年~嘉永3年)
「経世家」江戸の「東京」改称を提案した、幕末の経世学者。
江戸後期の経世家で農政学者。出羽国出身。父とともに奥羽、関東を遊学。江戸で蘭学、天文・測量術を学び、47歳のとき平田篤胤に師事。農政・物産・海防・兵学など多くの論説を著し、重商主義・絶対主義的な国家社会主義の構想を説く。江戸を「東京」と改称し都を置く、二都制を提唱したことでも知られる。著書に『経済要略』など。 weblioより
足尾の舟石線を走りました。NO.5 本山鉱山神社
本山の山腹にあり、明22年に抗長(古河鉱業株式会社足尾鉱業所長)木村長七以下、本山抗に働く鉱員達の寄進により造営されたもので、足尾銅山の山神社としては、最古のものである。鉱山神社はふつう山神社といわれ大山祗命、金山彦命、金山姫命の三神を祀るってある。昔は本山抗のかたわらに小祠としてあったものを、ここに新たに神社を建設して移したもので、本殿は流れ造りである。
足尾の舟石線を走りました。NO.6 閉山直前の本山の様子
本山は、、本山抗・鷹の巣抗の開抗につづき、明治17年〔1884〕に有木抗(本山抗)が開発されると同時に、鉱業所・選鉱所・精錬所・医局などの施設がおかれ、その後火力発電所や本山小学校の前身となる学校が設けられたりして、名実ともに足尾銅山の中心として大きく発展し、足尾は日本一の銅山になったのです。明治40年に、本山の労働争議をきっかに、鉱業所が掛水へ移りましたが、本山は北部地域最大の集落に形成されました。しかし、昭和48年(1973)2月28日に、足尾銅山が閉山となり、本山には、そのとき138世帯477人(10年前の昭和38年4月には、290世帯1167人)が住んでいましたが、その年の8月に遂に無人となりました。今は、鉱山神社がぽつりと、”つわものどもの夢の跡”を見守っているだけとなりました。
足尾の舟石線を走りました。NO.10 鷹の巣抗「対岸の中腹にあった古河の最初の直営抗」
足尾銅山は、明治10年(1877)に古河市兵衛が経営するまでは、下稼人(山師)の請負で採掘していた。当時38人の下稼人が70余の坑道を稼動させていたが、市兵衛は古河の直営抗を進め、同13年に休止していた鷹の巣抗の開発に着手し、草倉銅山(新潟)から精鋭の抗夫を投入するとともに、採掘方法に発破を採用し直利(富鉱)を発見、更に新らしい技術と設備を次々に導入し、足尾銅山の拠点となる主抗の開発に成功し日本一の銅山となっていった。
対岸の中腹を撮影しました。