古河市兵衛(明治10年)足尾銅山への投資②
江戸幕府から明治にうつり、政府は産出量を増やすために鉱山のすべてを官営にしましたが、足尾銅山においては、産出量が伸びない為に明治5年、民営移行の方針が出されます。多くの銅山師が挑戦したそうですが大きな成果はあがりませんでした。
古河市兵衛のもとに足尾銅山譲渡の話が持込まれたのは明治9年の末だそうです。
廃山同然でだったこの鉱山を譲り受けることについては古河家のなかにも反対意見が多かったそうですが、市兵衛は反対を押し切って、2万円あまりの大金を支払って入手ました。明治10年のことです。その際、草倉鉱山の成功あり相馬家からの出資し、明治13年からは渋沢栄一も参加しての三者による共同経営となりました。
当時2万円とは、抗夫の日当36~70銭 平均の50銭×28日(実働)=14円×12月=年168円です。1りの五等抗夫が日当50銭かせで120年飲まずくわずで稼せぐ金額であります。
当時抗夫の手当ては、厳しい労働条件、落盤の危険、鉱山特有の病気などの理由により、非常に良かったと聞いています。現在の価値にすると月40~50万円位と換算すると、当時の2万円は約6~7億円となります。
古河市兵衛の鉱山事業成功の鍵は、ひとつにはその巧みな人脈づくりにありました。特に陸奥宗光や渋沢栄一からは、会社運営・資金調達、新技術の情報、人材の採用・活用などの面で強力なサポートを受けています。
復刻版 足尾銅山図会 鉱夫等級賃金表「機械職~女工」