五分金<gobukin> 足尾熟語辞典
五分金<gobukin> : 収入の半分を強制的に貯金させる仕組み。
鉱夫のもしもの時の費用として貯蓄する仕組み。
また鉱夫が逃亡した際の借財の返済にあれられた。
« 2008年07月 | メイン | 2008年09月 »
五分金<gobukin> : 収入の半分を強制的に貯金させる仕組み。
鉱夫のもしもの時の費用として貯蓄する仕組み。
また鉱夫が逃亡した際の借財の返済にあれられた。
宿
新梨子=現在の松原,通洞地区
飯場所属鉱夫が飯場頭役に毎月義務的に支払う金。
内容は、飯場内の慶弔費、事務所の備品、消耗品、燃料の木炭、飯場組合に納める交際費など。
役屋<yakuya> : 足尾銅山の物品供給所のこと。
後の購買組合三養会になり、生協法により足尾銅山生活協同組合三養会として現在に至っている。
腰掛け<koshikake> : 別名どんぶり
お腹のところに収納ポケットがあり、雷管、導火線、ダイナマイトなどを入れた。
通帳<tsuutyou> : 物品貸下げ通帳のこと
足尾銅山の鉱夫は、米や味噌などの支給品と、役屋で利用したその他取り扱い商品を購入時に、数と料金を記入し、翌月の稼ぎ高支給時に最初に控除した。
物品の購入高が稼ぎを上回ると赤字となる。「下がり」と呼んだ。
アテシコ<ateshiko> : 藁で編んだしりあて

セットウ「石刀」<setto> : マセット(フランス語Massette)がなまったといわれています。
フランス鉱山の技術改革の中で普及した手掘り用ハンマー。
・石刀節の語源
一方<ichinokata> : 足尾の鉱山勤務における終日の就業時間のこと。
交代制の場合 ; 一の方、二の方、三の方
岡「おか」<oka> : 足尾銅山の坑内と対比の意味で、銅山坑外をさす。
Posted by: admin | Posted in: 足尾熟語辞典 腰堀り<koshihori> : 手掘り採掘には、横に水平に進む水平堀り、又は、下向きに掘る「銅じき」が主でした。
下向きに掘る「銅じき」の採掘法を腰堀りとよんでいました。
陸奥宗光(1844~1897)
先祖は伊達騒動で知られる仙台藩の伊達兵部で、その子孫は徳川御三家のひとつ紀州藩につかえた。
陸奥は勝海舟を師とし坂本竜馬とともに学び、海援隊に入って活躍した。
大政奉還後、兵庫県や神奈川県の知事を勤めたが、明治10年の西郷隆盛らが離反した西南戦争の時陸奥も政府転覆計画に加担したかどで、明治15年まで6年間東北の監獄に収監された。 その間、陸奥身をきずかって衣食等 の差し入れをしたのが古河市兵衛であった。
1883年(明治16年)出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。
この費用は、一万一千円を要したとされるが、そのうち二千五百円は市兵衛が負担している。
明治維新後、陸奥は新政府に登用され、駐米大使、農商務相、外相など歴任し、次男は子供のいなかった古河市兵衛の養子に迎えられた。

渋沢栄一(1840~1931)
足尾銅山は明治12年(1879)頃、古河、渋沢、相馬の3者の出資で開発された。
栄一は武蔵榛沢の郷士の子で尊皇攘夷運動に加わり、その後一橋家に仕え慶応3年、徳秋昭武に随行して渡欧し西洋の新知識を学び、明治維新となって帰国し日本で始めての民間銀行、第一国立銀行を設立し、古河市兵衛は大株主となる。
役人<yakunin> : 足尾銅山鉱業所の職員をさしている。
歩く「ぶ」<bu> : 含銅品位25%を10歩として、役人が肉眼で歩を鑑定した。
足尾懲役場<asiotyouekizyou> : 足尾銅山ではかつて囚人が働いていた。明治5年(1872)12月10日に足尾懲役場が設けられ、明治22年(1889)3月31日に廃止。それをうけた宇都宮監獄署足尾外役所も明治24年(1891)9月30日廃止された。最盛期の明治17年(1884)には囚人が187名を数え、主に運搬雑役(薪炭等)に従事した。
志賀直道(SHIGA NAOMICHI)
小説の神様といわれた志賀直哉の祖父 で相馬藩6万石の奉行。 廃藩後、明治に於いては相馬家の家令として財政維持につとめ、古河市兵衛、渋沢栄一と共に足尾銅山の再開発に尽力しその利益で主家の財政挽回を図った。
よろけ<yoroke> : 珪肺のことを指す。
坑内での採鉱時に出る微細な珪質粉じんが肺に蓄積し、肺の機能がおかされ、息切れや肺結核などを併発して死にいたらしめた職業病で、病状の様子から名づけられたとされる。
共教義会<kyoukyougikai> : 古河鉱業所が主導した鉱夫救済の為の組合。
鉱夫を会員として、鉱夫の拠出金、鉱業所補助金などを財源として、5日以上の傷者、10日以上の病気などの日当や扶助金などを与えた。
健康保険法の施工により組合はなくなった。
足尾に生きたひとびと 著書 村上安正 より
2008年8月4日 日本青年会議所栃木ブロック協議会のメディア戦略推進委員会「8月公開委員会」が開催された。
「今こそ発信 栃木の誇り」と題し、下野新聞論説委員 "関 隆一氏"と日光アイスバックスシニアディレクター "セルジオ越後氏"の講演会と対談。
関 隆一氏は栃木のポテンシャルとメディア活用についての内容で、セルジオ越後氏は、地域づくりとメディアについて講演いただきました。




8/10から8/31まで足尾を含めた、渡良瀬渓谷鉄道沿線で繰り広げられるワタラセアートプロジェクト2008
記念缶バッチの発売のお知らせです。
全8種類「1個¥200 3個¥500での販売だそうです。」の2種類を紹介します。

花輪の花模様

わたらせ社宅模様
8/10から8/31まで足尾を含めた、渡良瀬渓谷鉄道沿線で繰り広げられる、ワタラセアートプロジェクト2008もまもなくスタートです。
オープニング・セレモニーが8/9の18:00から「旧桑原利平マンガン工場(大間々会場)で開催されます。
イベントの 渡良瀬camping train+cafe の準備の様子です。




ワタラセアートプロジェクト2008の会期中、ここで沢山の人たちの語らいが目に浮かびます。
2007より
渡良瀬CampingTrainに宿泊してきました。
渡良瀬アートプロジェクト(WAP)開幕しました。
渡良瀬アートプロジェクト(WAP)は、面白い!
原 敬(HARA TAKASHI)
南部藩家老の家の次男として生まれ、藩校を出て海軍兵学校を受験するが失敗して明治9年に司法省学校に入学したが、退学して一時新聞記者になるが井上馨の世話で官界入りし、そこで陸奥宗光に認められて政界の道が開けて古河と接触持つにことになる。
陸奥宗光外務大臣の時に外務次官を勤め、明治30年官界を去って大阪毎日新聞社長になり、33年に立憲政友会の創立に参加し、35年に衆議院議員となた。 大正2年に政友会第3代の総裁、大正7年には総理大臣となる。 爵位を持たず衆議院に議席を有する首相の初めての出現は平民宰相と歓迎された。 しかし大正10年東京駅で暴漢に刺殺された。
原敬35歳の時に陸奥農商大臣の秘書官となり,その関係から足尾との出会いが始まった。 明治38年4月、陸奥の次男・潤吉が古河市兵衛の養子になり、新会社古河鉱業会社の社長に就任するにあたり、陸 奥の長男.広告に頼まれて原啓は副社長として、病弱な社長を助けて2年間足尾を見ることになった。
8/10から8/31まで足尾を含めた、渡良瀬渓谷鉄道沿線で繰り広げられる、ワタラセアートプロジェクト2008!
オープニング・レセプションに参加しました。
8/9の18:00から「旧桑原利平マンガン工場(大間々会場)で開催


オープニングの様子
代表の上原さん・・・・挨拶とお礼・・・・・ !!

マンガン工場に横5メートルの竹林が出現しました。

マンガン工場内の作品をご案内

これから渡良瀬渓谷鉄道の足尾沿線で始まるwapの夏に期待がよせられます。
足尾銅山の栄えていた時代から今もなお引き継がれている「直利音頭」
8月14日 17:00ころから降り出した雨に中止の不安がよぎりましたが、開会の19::00ころ雨は上がり無事「直利音頭」が響き渡りました。
企画の子供抽選会、 フェイスペインティング「ワタラセアートプロジェクト2008」、生ビール出店「商工会青年部」なども盛り上がりました。
「直利音頭」動画

あいにくの雨・・・・・・
それでも仮装大会盛り上がりました。
田舎の納涼祭「直利音頭」は骨身にしみました

青年部にはキャプテン ジャク・スパローも出没し雰囲気を盛り上げました。

WAP(ワタラセアートプロジェクト2008)のフェイスペインティングも子供で大賑わい!

あいにくの雨・・・・・・
それでも仮装大会盛り上がりました。
田舎の納涼祭「直利音頭」は骨身にしみました

青年部にはキャプテン ジャク・スパローも出没し雰囲気を盛り上げました。

WAP(ワタラセアートプロジェクト2008)のフェイスペインティングも子供で大賑わい!

ワタラセアートアートプロジェクト2008の企画、渡良瀬camping train+cafeに日光の地酒、片山酒造の「粕華(kasuhana)<米焼酎>」,渡辺佐平商店の「日光誉(nikkohomare)<吟醸酒>がサービス(1drink¥100「限定数有」)されています。
アートをきっかけに、日光のうまい地酒を知る!


渡良瀬camping train+cafeで日光の地酒を飲んだ方、おいしい感想をください。

こんな素敵なcafeで1杯も アートですよ!
足尾は、「銅」メダル応援 朝日新聞 第2栃木欄に掲載されました。
週刊とちスポ コラムニスト えのきどいちろう

北京五輪を見ていて、「(仮称)銅メダルおめでとう委員会」のことを思い出した。あれは去年、足尾の末広ホルモンという店へ行った晩だ。地元の商工会青年部の人とあれこれ話し込んだ。
面白いもので日光アイスバックスのプロモーションというのは、自動的に地域活性化、町おこしのプロジェクトにつながる。
足尾は「限界集落」なんだそうだ。往時、数万の人口を誇った山峡都市であったのを思うと、時の移ろいを感じる。
「えのきどさん、足尾の活性化につながる何かいいアイデアないですか?」
そのとき、やっばり足尾は銅じゃないかという話になった。
いや、銅山は既に役割を終えていて、足尾で銅は採れない。それでも観光客は足尾銅山だと思って足を延ばしてくる。僕は売店で(本当はブリキ製の)銅メダルを売ってたらうれしいんだけどなぁ、と言ってみる。
「足尾の人が銅に人一倍、敏感っていうのはどう? 五輪のときも金・銀には冷静なんだけど、銅メダル取った選手が出たら町をあげて喜ぶ」
以前から気になっていたことだが、五輪で金メダルを取った選手はもちろん菩ぶ。で、銀はガッカリする。
女子柔道の塚田真希、女子レスリングの伊調千春だ。不思議なもので鋼の選手は金に負けないくらい亭ぶ。順番でいえば銀メダルの方が上なのに、ハッピーなのは銅メダルの選手だ。
「足尾はハッピーでラッキーな、世界で3番を応援します、というのはどう?」
ただ売店で銅メダルを売るんじゃなくて、「世界で3番目にお父さんが好き(笑)」とか、そういう表彰式までセットにしたら、と言った。
現状ではそこまでのことは実現していないみたいだけど、昨秋、オータムフェスティバルのアトラクションでは、1位2位の子に賞品、3位の子だけに銅メダルを授与したらしい。
たぷん北京五輪・競泳(200㍍背泳ぎ)の中村礼子や女子レスリングの浜口京子が成し遂げた「2大会連続・銅」の快挙に、足尾の商工会は騒然となっているんじゃないか。
アーネスト・サトウ(ERNEST SATO) 幕末から明治期にかけて日本の近代化に多大なな貢献をした英国の外交官。 日本の近代化に西洋文明を丸ごと導入することを提案し、日本政府はそれを採用することになり、鉱山における近代化のモデルのひとつになったのが足尾銅山である。
明治19年の夏、サトウが足尾に来て当時の政財界の著名人と会合した記録がある。 足尾で会った人物は古河市兵衛が招待した陸奥宗光、後藤象二郎、渋沢栄一ら一行であった。
陸奥宗光は明治政府の高官の中で欧化論者であり近代化推進派の先達であったのはサトウとの交流によるものかもしれない。 陸奥の次男、潤吉は後に古河市兵衛の養子になり米国に留学し近代経営者として会社を引き継いだ。
サトウは1843年にロンドンで生まれで1862年(文久2年)、19歳の時に来日し英国公使館の日本語通訳生となり明治2年に一時帰国、明治5年から明治15年までパークス公使の書記官となる。 その後、外国の任地を経て明治28年から33年までの6年間、日本公使の要職を務めた。 公的業務のかたわら日本の自然、地理、歴史、文化を欧米の人々にむかって紹介すると共に、日本近代化の導き役をつとめた。
彼は文筆家としても知られ、日本に関する著作を数多く残した。 中でも「一外交官の見た明示維新」は現在でも刊行されている。 またサトウは日本の別荘地開発や登山の先達で、特に日光中膳寺湖畔に英国公使館の別荘を創設し、それ以降、各国の大使館が湖畔に別荘を造り、夏の外交は日光で行はれた時期があったと言はれている。
武田久吉
森林植物学を専攻した久吉は戦後昭和35年に日本自然保護協会を設立するなどエコロジストの草分けとして知られている。 昭和46年88歳の著作「明治の山旅」のはしがきの中で「わが国国内凡百の山岳は、幾多の遊戯登山大衆の脚下に踏みにじられて、かてて加えて、観光公害の犠牲になり、昔日には到る所で見られた、けがされない自然美は、日々に稀薄となって、今やそれはなかなか求めべくもないと言ったならば、誇張であろうか。と企業のみならず人間についても自然破壊に警告をしている。
勝海舟(KATU KAISHU) 近代日本国をつくった幕末維新時代のパイオニアの中で、幕末敗者側の要人にもかかわらず時代を超えた国際感覚をもち、明治維新の時45歳だった海舟は明治政府では海軍大輔の要職につき、明治8年に官を辞し以降25年間悠々自適の生活送った。 伯爵貴族院議員に互選されるがアウトサイダーとして日清戦争に反対の立場をとり、日本の近代化、洋風化については消極的であった。
海舟が近代化の中心地であった足尾をおとずれた記録は残っていない。 隣町の日光には一度きている。 海舟は日光東照宮の官軍による攻撃を回避させ、破壊から守った功労者の一人であった。
日清戦争が終わった翌年の明治29年、日光足尾地方に大暴風がおそい渡良瀬川が氾濫して両毛平野に被害がでた。戦時下でおさまっていた足尾銅山の鉱毒問題が表面化し、田中正造は足尾銅山鉱業停止同盟会を組織する。 その後明治30年3月、農商務大臣榎本武揚は渡良瀬現地を視察するが、足尾銅山の創業停止命令をだしたあと大臣職を辞任する。 この時の3月27日の毎日新聞には次のような内容の海舟の発言が載っている。 「文明の大仕掛けで山を堀りながら他の仕掛けこれに伴ってないことは間違っている直ちに停止の外はない」
海舟は外務大臣にもなった陸奥とは意見が合わず対立する立場をとった。
2008北京五輪の銅メダル獲得 「勝手に足尾で」祝賀パーティー!が開催されました。
※なぜ銅メダルは・・・・足尾は、「銅」メダル応援 朝日新聞掲載
主催 足尾商工会青年部 銅メダルおめでとう委員会
日時 : 2008年8月24日 北京五輪閉会式日
場所 : 足尾 ホルモン末広

ムチャクチャ盛り上がりました!
銅メダル獲得おめでとう
2008北京五輪 銅メダリスト
2008/08/22
陸上男子 400mリレー
朝原宣治
末続慎吾
高平慎士
塚原直貴
2008/08/20
シンクロナイズドスイミング チーム、デュエット
原田 早穂 (はらだ さほ)
鈴木 絵美子 (すずき えみこ)
2008/08/19
レスリング フリースタイル 60kg級
湯元 健一 (ゆもと けんいち)
2008/08/17
水泳400mメドレーリ北島 康介 (きたじま こうすけ)
佐藤 久佳 (さとう ひさよし)
藤井 拓郎 (ふじい たくろう)
宮下 純一 (みやした じゅんいち)
2008/08/17
レスリング フリースタイル 72kg級
浜口 京子 (はまぐち きょうこ)
オリンピック2回連続銅メダル
2008/08/16
2008競泳女子200m背泳ぎ
中村 礼子 (なかむら れいこ)
オリンピック2回連続銅メダル
2008/08/16
自転車 トラック チームスプリント、ケイリン
永井 清史 (ながい きよふみ)
2008/08/13
競泳男子200mバタフライ 銅メダル
松田 丈志 (まつだ たけし)
2008/08/13
柔道 52kg級
中村 美里 (なかむら みさと)
2008/08/13
柔道 48kg級
谷 亮子 (たに りょうこ)
以上、ロンドンも「銅」を祈っています。

「DO」の文字に沸くホルモン会場

銅メダル受賞者発表で「ウォー」!
榎本武揚(1836~1908) 明治維新の時榎本は33歳であった。 江戸を明け渡し幕臣達は駿府70万石で食っていかざる得なっかた。 榎本は広大な蝦夷地の荒野に幕臣達の生活の場を求めて新政府に嘆願書を出したが認められず、五稜郭で戦って敗れた。 しかし明治政府は榎本の力量を評価し、海軍卿(かいぐんきょう),逓信相、分相,外相、農商務相などの地位で遇した。
幕臣の子として生まれ長崎海軍伝習所で学び、その後6年間オランダに留学し七ケ国語を理解した外国通科学者であった。 明治27年伊藤内閣では農商務大臣となり、この間日清戦争の戦時内閣のおいて、その重責を果たした。 基幹産業がなかった時代に「鉄は工業の母,護国の基礎」という言葉で鉄産業の強化を進め、彼の主張もあって釜石製鉄所や八幡製鉄所ができる。
その時期に足尾銅山の鉱毒事件がおこる。 明治30年2月26日第10議会において田中正造は質問書を提出し、足尾銅山の鉱害防止を怠ってきた農商務省の怠慢を批判した。
大臣であった榎本は同年3月23日現地を視察する。 明治政府の官僚として、はじめて榎本が鉱害現地を訪れたのである。 榎本は一日の鉱害現地視察から帰り、翌日足尾銅山鉱毒事件調査委員会の設置と足尾銅山の操業停止命令を出し,鉱毒事件の責任をとって農務商大臣を辞任した。 榎本62歳の時で以降官職にはついていない。
榎本の辞任は足尾鉱毒問題を解決したのではなく一つの問題提起であり、近代日本の殖産体制下の急務と技術水準のギャップ、さらには鉱毒の実態を彼自身が一番良く知っていたのかもしれない。 当時の技術水準で汚泥や煙灰の処理が不可能なることを理解できる化学知識を持っている閣僚は他にいなかったであろう。
榎本の下した命令は調査会で検討されて操業停止前に除害工事を施工するべきものとして明治30年5月27日37項目にわたる第3次予防工事命令書が古河足尾銅山に下った。
それから百余年経過し、技術的な解決方法がされたが銅山の鉱脈も底をつき足尾銅山は昭和48年閉山した。
ウオルターウエストン(1861~1940) 英国の宣教師でケンブリッジ大学卒業し明治14年(1881)27歳の時、最初に来日し以来三度訪日して宣教師として伝道活動のかたわら日本の山岳に登り世界に紹介している。 日本アルプスの名ずけ親で日本山岳会の結成に尽力した。
彼の写真コレクションは、イタリヤの山岳博物館に収められいるが平成11年、山岳誌「岳人」の創刊50周年を記念して「ウェストンの見た明治.大正の日本」写真展が東京都写真美術館で開催され、日本で初めて公開された94点の作品の中に足尾の写真があり、その写真がこの写真展の宣伝ポスターとして使用され我々の眼に入り感激した。 その写真は明治40年(1907)頃、深沢の入り口にあった栃本屋旅館の二階から赤倉精錬所を写したもので絵の具で着色されていた。
作者が不明とのことですが、ウエストンは隣の日光,中禅寺訪れているのですが、足尾に来た記述がないので、この時期小野崎一徳は栃本屋旅館から約500メートルの赤倉で写真館を営業していたので彼の撮影によるものではないかと思われる。

銅の心意気
俺たちは銅が大好きさ。
だって銅はこの足尾の土地に埋もれているんだぜ。
最近は、銅の採掘に採算が合わないから止めちまい、おかげで人口も減っちまったが
これが本来の姿なのさ。
だから、何も気にすることは無いさ
だってこれ以上銅が無くなることはないから・・・
俺たちは銅が大好きさ。
金より、銀より銅はラッキーなんだぜ!
4位はメダル貰えないけど3位は銅メダルが貰えるんだぜ!
ナンバーワンにこだわることは無いんだよ。
無理はしなくていいんだよ。
すったいなあ (かっこいいなあ)
俺たちは銅が大好きさ。
500円硬貨より、10円硬貨が大好きさ。大好きだから思わず食っちまいたくなる
おっと、いけねえ
決して10円硬貨を口に入れちやなんねえ!下手をすれば命取りになるぜ!
俺たちは銅が大好きさ。
どっかの洗剤の景品で金・銀・パールプレゼント♪なんてやっていやがった。
何か忘れちやいねぇか?
まあ、いいや・・・
俺たちは銅が大好きさ。
だから1番の自慢話は聞きたくない
どうしても3番や3位の話が聞きたくなっちまう!
銅の価値や、思いが感じるからさ。
教えてくれたら俺たちと祝おうぜ!
銅なんだから無理はしなくていいんだよ。無理はしない程度にな。
足尾町商工会青年部
銅メダルおめでとう委員会
| Sun | Mon | Tue | Wed | Thu | Fri | Sat |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |
| 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 |
| 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 |
| 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 |
| 28 | 29 | 30 |
ブログの更新情報をメールでお知らせします。ご希望の方はアドレスの登録をお願いします。
copyright© 2007 nikko-spot All Rights Reserved.