勝海舟(KATU KAISHU) 近代日本国をつくった幕末維新時代のパイオニアの中で、幕末敗者側の要人にもかかわらず時代を超えた国際感覚をもち、明治維新の時45歳だった海舟は明治政府では海軍大輔の要職につき、明治8年に官を辞し以降25年間悠々自適の生活送った。 伯爵貴族院議員に互選されるがアウトサイダーとして日清戦争に反対の立場をとり、日本の近代化、洋風化については消極的であった。
海舟が近代化の中心地であった足尾をおとずれた記録は残っていない。 隣町の日光には一度きている。 海舟は日光東照宮の官軍による攻撃を回避させ、破壊から守った功労者の一人であった。
日清戦争が終わった翌年の明治29年、日光足尾地方に大暴風がおそい渡良瀬川が氾濫して両毛平野に被害がでた。戦時下でおさまっていた足尾銅山の鉱毒問題が表面化し、田中正造は足尾銅山鉱業停止同盟会を組織する。 その後明治30年3月、農商務大臣榎本武揚は渡良瀬現地を視察するが、足尾銅山の創業停止命令をだしたあと大臣職を辞任する。 この時の3月27日の毎日新聞には次のような内容の海舟の発言が載っている。 「文明の大仕掛けで山を堀りながら他の仕掛けこれに伴ってないことは間違っている直ちに停止の外はない」
海舟は外務大臣にもなった陸奥とは意見が合わず対立する立場をとった。