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足尾の歴史 アーカイブ

2007年04月24日

足尾銅山の歩んだ歴史 足尾のはげ山の理由

足尾のはげ山の理由

はげ山の存在を、鉱毒(精錬所から出た煙「亜硫酸ガス」)によるものだけだと思っている方が非常におおいようです。
鉱毒問題も理由の1つですが、他に理由が4つ、全てで5つの理由から足尾銅山のはげ山(日本のグランドキャニオン)が存在す理由となる。

・銅の鉱石から、1㌧の銅を精製するための燃料の薪は、同じ重さの1㌧必要され、山の木、約一町歩(いっちょうぶ 9917.36㎡ )(10反)の木材を、1日で必要とした為である。


・山が丸裸になった原因のもう一つは山火事だった。山の火災は伐採後芽生えてきた芽を焼失させ発芽力を低下させた。この山火事の中で一番大きかった火事は1887年4月8日に松木村から発生した。これは祭火が風にあおられて燃え広がり約1100ヘクタール焼失した。これは中禅寺湖の大きさに匹敵する大火事であった。このような山火事が数回起った為である。

・足尾銅山の約400年の歴史で、長さ述べ約1200キロの坑道が掘られており、東京~博多までの距離にあたります。
その坑道全てに、崩れぬよう木材を組む必要があった為である。
勿論、専門の職人がいた。

・足尾銅山全盛期の住まいの多くは、古河の提供する社宅、坑夫長屋が数多く存在した。「足尾1000軒」とも言われた長屋の存在である。
それら全てが木造であり、また多くの材木を必要とした為である。

現在は、NPO法人 足尾に緑を育てる会などが、中心となって足尾の山に緑を復活すべく活動している。


以上

2007年04月30日

足尾駅まつり

足尾駅まつり
4月28日~5月1日まで、足尾駅まつりが、開催されています。
古河鉱業や、わたらせ渓谷鉄道の協力により、足尾の昭和初期に活躍していた車両が、
な・な・なんと、再び魂をこめられ、動いていました(DJとよんでました)。
中には、うごかな車両もありますが(キハ35 70)、展示場になっていました。
ん~、このノストラジックな感じが、本当に似合うまち足尾です。
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足尾の歴史を見つめてきた 山の神

山の神 足尾民芸
山深い足尾の谷々にも石器時代から人々が生活していました。
住民のおおくは、災難や厄病などをすべて魔の仕業と考えていたようです。
山の神はその魔を除き人々の幸せを守る神この神をを祭った処が、山の神という地名で今でも足尾の処々にのこっています。
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2007年05月13日

下野新聞5/12 足尾銅山世界遺産に向け一歩

下野新聞5/12 足尾銅山世界遺産に向け一歩
 「足尾銅山の世界遺産登録推進準備検討委員会」の発足!

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下野新聞5/12 古河が世界遺産への議論に参加!

世界遺産へむけ、足尾が動きだした。
住民の熱意が、「山」うごかす。
古河が世界遺産登録に「前向き」

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2007年06月04日

足尾観光のついでに変わったご利益「通洞鉱山神社」

足尾銅山観光の出口のすぐ前に、通洞鉱山神社があります。
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通洞鉱山神社(つうどうこうざんじんじゃ)
足尾銅山の本山坑、小滝坑、通洞坑の三山にそれぞれ山神社が建てられた。当神社は銅山最盛期の頃の大正9年(1920)に鉱業所がこの地に移設されたとき造営され、以後、山神祭も盛大に行われた。通洞坑の開発は明治18年に着手されたが、それまで足尾銅山発祥地の簀の子橋山神社を祀っていた。

因みに一風変わったご利益があるのでご紹介します。

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だれしでもいつかは年をとります、ちょっと心配なのは、「ぼけ」ではないでしょうか!
楽しい老後を送るためにも今のうちから祈っておいたほうがいいかもしれませんね。

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もう一つは、「いじめ」です。
いくつになっても、「いじめ」は、存在します。
足尾の澄み切った空気の中で、いじめ撲滅を誓いましょう。

2007年06月11日

足尾銅山の足字銭 寛永通宝 面白情報!

時代劇を見ていると、「おあし」という、言葉を耳にする。
「おあし」とは、寛永通宝のことである。
なぜ、寛永通宝を「おあし」と呼ぶのか・・・・・
一説には、足尾銅山でつくられた寛永通宝には、「足」の字が刻まれている、そこから「おあし」と呼ばれていた。・・・・・・・との事だ。なるほど

足字銭 寛永通宝 
寛永通宝(かんえいつうほう)は、日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨。寛永13年 (1636年)に創鋳、幕末まで鋳造された。
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足尾銅山で造られた足字銭鋳造枚数の間違いを紹介しています。 

こしあて

抗夫が自分にあわせて作った尻あて。
江戸、明治、大正、昭和と足尾銅山、約400年の歴史には、岩ばかりの鉱山の中で、少しでも労働環境を良くするための工夫が、沢山あったであろう思います。これもまたその知恵のひとつであり、足尾の文化です。
尻にあててみましたが、これなら少々とがった岩に座っても大丈夫。

足尾銅山観光のHさんに協力して頂撮影しました。

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カーバイトカンテラ

大正初期から昭和35年ころまで使用された、足尾銅山の抗夫が使用した、燃料型ランプ。
上部と下部に分かれたおり、上部に水、下部に燃料を入れ、上部に入れた水が下部の燃料に設定したタイミングで落ちて、燃料が水と混ざるとガス化され、丸い皿のような部位の中心から出てきて燃える仕組みだそうです。
皿状の部分を、磨けば磨くほど、反射よく明るくなるそうです。
面白いのは、カンテラをつるす針金で、抗夫のオリジナルがそこに現れるそうで、岩にかけたり、自分の肩にかけてりと、状況で対応させる為の工夫があったそうです。

しかし、実際に燃えているランプを使用するのは、ちょっと怖いですね。

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銅産量を飛躍的に伸ばした立役者「発破」(ダイナマイト)

「発破」と聞いてなんだか分かる方は、少ないのではないでしょうか。
「発破」とは、ダイナマイトの事で、銅山の岩を効率よく爆破して、進める為の作業のことです。
私の子供のころは、「発破作業」の前に、ウーーー!!!と言うサイレンの後に、山のほうでドカンという爆発音を、耳にしたものです。
その2、ウーーー!!!と言うサイレンの後に「発破」だ「発破」だ「発破」だと、意味もなく駈けずり回った記憶もあります。
下記は、閉山まで使用されていた発破装置と導線です。
ちなみに発破装置の上部、うす紫色の部分に、直径7/8㎜の丸い穴があるが、そこに鍵のような物を差込、ひねると爆破する仕組みだそうです。
「発破作業」を用い、延べ1200キロにも及ぶ足尾銅山内の坑道の長さが確認されており、「発破」という危険と隣り合わせの作業に、当時の緊張感が思い浮かべる。
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2007年06月12日

第二回トロッコ列車ファッションショ-

第二回トロッコ列車ファッションショ-が6月10日に行われた。
私はてっきり、ポスターに雨天中止の文字があったので、中止と勘違いしてしまった。

わたらせ渓谷鉄道のトロッコ列車内で、大正ロマンをイメージさせる着物ファッションショ-と、
途中駅の花輪駅、通洞駅前でのイベントという内容だったそうです。
外でのイベントが中止になり、着物ファッションショ-は、行われた運びだそうです。
足尾が元気になる企画がもっと沢山出てくる事を、心より願っている。
もちろん進んで企画から参加したい。

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2007年07月02日

Mr.Bike 足尾特集 6月号

Mr.Bike 6月号に足尾特集の記載がありました。
俺たちの旅 「そうだ、足尾へ行こう!」 (前編)

足尾銅山観光のHさんから情報を頂きました。貴重な情報ありがとうございます。
雑誌記載後の観光客に、バイカーが増えた気がします。

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Mr.Bike 足尾特集 7月号

Mr.Bike 7月号に足尾特集の記載がありました。
俺たちの旅 「そうだ、足尾へ行こう!」 (後編)

後編で終了は、少々寂しいですが、まだまだ足尾の奥は、深い!
幾度と、足尾を探求してください。

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小滝へ行ってきました。 火薬庫 入り口

実は、火薬庫跡を見たことがありませんでした。
小滝にせっかく上るので、撮影しに来ました。
が・・・・
これは、火薬庫跡の入り口で、この奥に火薬庫跡があると言うではありませんか。
まずは、入り口で許してください。後日撮影してきます。

火薬庫跡は、今年重要指定文化財に指定される予定です。

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それにしても、重みを感じる建物です。

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壁の表面です。 この錆具合が歴史を深さを物語っています。
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小滝へ行って着ました。 小滝の里

昭和29年に、小滝抗が廃止され、小滝に住んでいた人々は、思い思いに山を去っていきました。
盛んであった小滝を偲び昭和39年に碑をたて「小滝会」を結成したそうです。
私の母も小滝生まれです。
ここまでは、狭い道が続きますが、小滝の里は公園のようになっています。
ちょっとした休憩、お弁当、記念写真の場として最適です。

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小滝にいって来ました。 小滝抗跡

小滝の里の正面に足尾銅山の小滝製錬所・選鉱所 跡があります。
小滝抗が開抗され、この地に製錬所(明治30年廃止)・選鉱所(大正9年廃止)が設けられた。
往時のレンガの跡が偲ばれる。
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小滝へいって来ました。 抗夫浴場跡

抗夫浴場跡です。
小滝坑の抗夫たちは、仕事を終えるとなにより先に、身体の汚れを流し疲れをいやすために風呂に入った。さぞ四方山話(よもやま)で賑わったであろう。
直径4m前後である。

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小滝にいって来ました。 小滝橋

明治20年に銅山便道として開削された小滝路に、唯一残された銅製の橋(長さ22.6m巾3.05m)で、大正15年に架設された。
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大正期に撮影された写真
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小滝にいって来ました。 小滝抗跡

小滝抗跡(日光市指定史跡)
明治十年(1877年)足尾銅山経営を始めた古河市兵衛は、小滝の旧抗(250m先までの堀止)を利用し、
明治18年(1885年)7月にこの小滝抗を開抗しました。
明治26年11月には本山抗(間かく3005m)と貫通し、次に立抗で通洞抗(間かく3276m)とも連絡するようになり備前楯山にむかって3抗から採鉱がすすめられました。
この開抗の功労者は笈川清七と木部末次郎であり、当時下駄づくり小屋が一軒しかなかったこの土地に、小滝抗を中心に銅山の施設と集落が出現し、大正年間には、人口1万人余となりました。
昭和29年(1954年)銅山の経営合理化により小滝抗が廃止されるとともに銅山の施設が全部撤去されて今日に至っています。
当時の名残を小滝抗と前岸のさく岩機練習のノミ跡にとどめています。小滝坑の小抗は、旧抗の1つです。
昭和51年3月15日 日光市教育委員会

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大正期に撮影された小滝抗
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小滝へいって来ました。 小滝小学校・第3中学校 跡

小滝小学校・第3中学校 跡 
看板の横から階段がありました。
母の母校とも聞いていて、興味深深で散策しました。
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この階段を2・3回折り返すと、学校の跡です。
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耳を澄ますと鳥の鳴き声と、虫の音だけ・・・・・
静寂のなかに、大正・昭和の小滝小学校・第3中学校の賑わいを想像して見ました。
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熊が出る事もあるそうです。
気おつけて散策下さい。


2007年07月06日

艦上戦斗機「足尾号」 1944

艦上戦斗機「足尾号」 昭和19年 
太平洋戦争に勝つために足尾町民の献金でつくった艦上戦斗機「足尾号」
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目で見る足尾の100年 第5集より

「足尾号」の文字が確認できる。
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当時の標語
「一機でも多く飛行機を!」
「進め1億の火の玉だ!」

2007年07月13日

本山小学校と旧本山迄の線路

現在足尾小学校が完成するまで利用されている本山小学校と、利用されていない旧本山迄の線路。

廃校目前の学校と、使用されていない線路・・・・錆びた鉄橋、寂しさと、懐かしさが混在する。

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下の写真は、1メートル先の線路にピントを合わせてみた。

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2007年07月15日

とちこみIN日光 7月号 足尾掲載

とちこみIN日光 7月号 足尾掲載されています。

田中正造と足尾鉱山についての記事

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2007年07月16日

間藤水力発電所跡 

間藤水力発電所跡を撮影しました。

日本で初の水力発電所である。

銅山の動力源、薪、木炭に変わるべきものとして、ドイツのジーメンス電気機械製造会社より、技術を導入し

たものだそうだ。

なんと400万馬力の電力! 鉄腕アトム4人分である・・・・・・・・

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水が落ちた、大鉄管跡。

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大鉄管のある、道路挟んだ反対側の川には、発電所の館の名残を見ることが出来る

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足尾銅山のトロッコは、アプト式

お客さん:このトロッコは、アプト式なんだ!

私    : ?・・・・・・・・・・・

私    : そうなんですか・・・・

皆さんアプト式をご存知ですか!

アプト式とはこれだ!ワン、ツー、スリー

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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

アプト式(Abt system)とは、ラック式鉄道の方式の一つ。アブト式ともいう。開発者カール・ロマン・アプト(de:Carl Roman Abt 1850-1933)の名前に因む。「アプト」はドイツ語読み。

日本の営業用路線ではこの方式によるラック式鉄道しか存在しなかったため、ラック式鉄道そのものを「アプト式」と誤解して呼ぶ事がある。

なおラック式鉄道にはアプト式の他に、リッゲンバッハ、シュトルプ、ロッヘルの各方式があり、いずれもスイスの鉄道に現存している。

種々あるラック式鉄道のうち「アプト式」とは、複数のラックレール(Rack-rail)およびピニオンギア(Pinion-gear)を位相をずらして設置する方式を指す。複数の歯の位相をずらす事により、駆動力の円滑化および歯の長寿命化を図った。

古河橋を撮影してきました。

古河橋を撮影してきました。

足尾銅山の誇れる産業遺産の1つです。

明治23年(1890)ドイツ・ハーコート社製。 %E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%88%E8%A3%BD.jpg

形式・鋼鉄製、木床版、単径間ボスとリング・ワーレントラス式 ピン結合 

橋長48.5mで、上弦材にH形鋼を使用した珍しい形式だそうです。

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足尾銅山社宅 愛宕下(あたごした) 

足尾銅山社宅 愛宕下(あたごした) を撮影しました。

愛宕下(あたごした) の「赤長屋」と呼ばれた社宅です。 昭和31年には181世帯819人の人口を数えたそうです。 世界遺産登録を目指す、この地区として、ここに付加価値を与える案が必要であると考えます。

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2007年07月17日

管理棒

足尾銅山の中でも管理者が使う「管理棒」とやらを紹介します。

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この棒を所持して、管理職の方が坑内を点検したそうです。

実際に足尾銅山にお勤めだったから、譲り受けた貴重な「管理棒」で、かなり年期が入っています。

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丸いほうで岩、レール等をたたき、音などで状況を判断するそうで、

とがった方で、ダメージのある岩等を、崩すのに使用したそうです。

よく見ると棒のほうに、5cm間隔にノコギリで傷が入っており、スケール代わりにもなるそうです。

また、足尾には、古河専門の鍛屋も存在しました。

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このロゴ!センスがいいですね!

しかし、残念ながらあとづけだそうです。

 

かつら 砕かれた鉱石を集める道具

かつらを撮影しました。

砕かれた鉱石を集める道具です。

握る木材部分が曲がっていますが、これは工夫のオリジナルだそうで、採掘場所や、好みで曲げの角度がまちまちであったそうで、工夫のこだわりがうかがえた箇所でもあったそうでう。

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鉄の部分は、古河から支給されたものだそうでう。

非常に良く出来ている構造に、驚きました。

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足尾銅山物語

足尾銅山物語 著者 小野崎 敏
叔父が、小野崎一徳写真帖 足尾銅山 に継ぐ2冊目、足尾銅山物語を出版。

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2007年07月23日

源さんの足尾銅山採掘紀行 必見 

源さんの足尾銅山採掘紀行を見てから、銅山観光を見学してみよう。

銅山観光のトロッコ列車の乗車前に、5分程度のビデオがある。

5分では語りつくせないが、事前勉強が出来なかった方には、お勧めのビデオである。

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ローダーでの鉱石の積み込み作業!

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こんな感じで、ビデオをみてから、展示品を鑑賞すると面白い。

 

2007年08月06日

通洞 役員住宅を撮影しました 玄関

通洞 役員住宅を撮影しました。

いろいろな方の協力をいただきまして撮影できました。

特にHさん、ご協力ありがとうございました。

歴史的にも価値がある役宅であると思います。

現在は、使用されておりませんが、8年ほど前までは、利用者があったとのことです。

今後、足尾の地域活性に役立っていく場所であってほしいと願っています。

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玄関前

役宅玄関前1.jpg

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通洞 役員住宅を撮影しました 廊下A

通洞 役員住宅を撮影しました 廊下A

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通洞 役員住宅を撮影しました 10畳和室

通洞 役員住宅を撮影しました 10畳和室

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10畳和室から廊下Bにかけて

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10畳和室 出窓

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10畳和室床の間

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通洞 役員住宅を撮影しました 8畳和押入付室

通洞 役員住宅を撮影しました 8畳和押入付室

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8畳和押入付室 床

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8畳和押入付室 天井 欄間

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通洞 役員住宅を撮影しました 風呂

通洞 役員住宅を撮影しました 風呂

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風呂場 窓

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風呂場 天井 電気

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下記電気を、棒状の器具(現場になかった)を通し、直接浴槽の水に入れると、

お湯が沸くそうだ。 冬は、かなり時間がかかるそうだ(半日くらい)

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浴槽の写真がありません・・・・・・・・          

通洞 役員住宅を撮影しました 8畳和室 右上

 通洞 役員住宅を撮影しました 8畳和室 右上

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6畳和室から見た8畳和室 

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8畳和室 欄間 (神棚は、6畳和室)

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8畳和室 欄間 アップ

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 通洞 役員住宅を撮影しました 廊下B

 通洞 役員住宅を撮影しました 廊下B

通洞 役宅 見取り図.jpg

廊下B 窓

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8畳押入付から撮影した 廊下B窓 正面

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通洞 役員住宅を撮影しました 廊下C

通洞 役員住宅を撮影しました 廊下C

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廊下C 北側

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廊下C 庭側

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通洞 役員住宅を撮影しました 外観

通洞 役員住宅を撮影しました 外観

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窓2

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屋根

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2007年08月18日

足尾銅山の世界遺産登録を推進する会の勉強会

足尾銅山の世界遺産登録を推進する会の勉強会が8/18(土)、行われた。

講師は、栃木県教育委員会事務局 文化財課 課長 江連勝明氏

演題は、「文化財の指定とその活用-世界遺産登録に向けての現状と課題」

主催:足尾銅山の世界遺産登録を推進する会

 

この会に、衆議院議員 森山まゆみ代議士、栃木県知事 福田富一氏、文化庁から文化財部長、文化部長、文化財記念課長とそうそうたる方が参加されました。

足尾銅山の世界遺産登録えの活動が実を結ぶ様、応援していきたいです。

又、そういった街の盛り上がりが、足尾に新たなエネルギーのうねりを起こす事をきたいしています。

 

足尾銅山の世界遺産登録を推進する会 会長 神山勝次氏の 「足尾銅山の世界遺産登録をめざして %E7%A5%9E%E5%B1%B1%E4%BC%9A%E9%95%B7%E3%80%80%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%81%BA%E7%94%A3.jpg

ファイルをダウンロード

2007年08月28日

足尾銅山世界遺産にむけ日光市登録推進検討委が提案書原案

8月28日下野新聞の総合・社会面に足尾の世界遺産にむけた記事が掲載された。

足尾銅山世界遺産にむけたコンセプト3点。

・足尾銅山の近代化

・環境(鉱害)問題対策

・公害防除の歴史と技術

構成遺産候補を絞る。

・通洞抗

・宇都野(うつの)火薬庫ほか40箇所

 

河東委員長のコメント

・「鉱山遺跡は他にもあるが、近代化と鉱害を併せて取り組むのは、今までにない形。現代にも通じる新しいテーマで足尾だからこそアピールできるものだと思う」と話している。

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2007年09月02日

NAVI 10月号に、えのきどいちろう氏コラム「足尾」が掲載 

NAVI 10月号に、えのきどいちろう氏コラム是々非々148回に「足尾」が掲載 !

ご縁あって知り合ったのコラムニストの、「えのきどいちろう氏」を2007年7月27日に足尾を御案内しました。

その時の事の「コラム掲載」です。

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NAVI 文1.jpgNAVI 写真 10.jpg

NAVI 文2.jpg

足尾を御紹介いただけることは何よりです、ありがとうございます。

ん~ しかし、こういった魅力ある、引き込まれる文章をかくこと・・・・・・あこがれますね!

 

2007年09月04日

足尾銅山 鉱毒被害も世界遺産に 下野新聞9月4日

足尾銅山 鉱毒被害も世界遺産に 下野新聞9月4日

鉱毒被害 9月4 下野.jpg

2007年09月05日

経済産業省「近代産業遺産の活用による地域活性化推進事業」の産業遺産視察9月4日

経済産業省の産業遺産視察が、9月4日足尾銅山で行なわれた。

近代産業遺産の活用による地域活性化推進事業の視察である。

経済産業省 日光視察 9月5 下野.jpg

10月にのシンポジュウムにて、評価、認定され、足尾銅山の近代産業遺産への認識、深化が深まること事を期待する。

 

近代産業遺産の活用による地域活性化推進事業の仕様書

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経済産業省2.jpg

経済産業省3.jpg

109年で休校した 神子内小学校 1

神子内小学校を撮ってきました。 1

神子内小学校は、明治(1875)に足尾小学校神子内分校として開校しました。

休校は1984年、それ以来時間は止まっています。

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109年で休校した 神子内小学校 2

神子内小学校 校門 2

校門からの校舎です。(携帯カメラ)

小さい学校で、向かって右が教室、中央が入口、左が職員室の模様です。

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109年で休校した 神子内小学校 3

神子内小学校 廊下 3

下駄箱の上に置き忘れられたラジオ

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木造の廊下・・・・・・・

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すりガラスですら見かけなくなった。

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109年で休校した 神子内小学校 4

神子内小学校 教室4

1クラスにしては広い・・・・ん

反対側にも黒板がある。 真ん中でしきり2クラスにもなる構造。

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黒板消しが残ってました。

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何を思いますか?

きっと私と一緒のひと、いますね。

 

2007年09月07日

世界遺産に向け、リストアップされている足尾銅山通洞抗

世界遺産に向け、登録にリストアップされている足尾銅山通洞抗

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三脚がなかったので・・・・・

足尾銅山観光 トロッコ用のドックヤード発見

足尾銅山観光 トロッコ用の下部修理用の場所があったとは・・・・

銅山観光の出発プラットホームの左は、何故に木材がひいてあるのか分からなかった。

その板を外すと、巾約80cm、長さ2.5メートル、深さ1メートルの空間が現れた!

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なんと階段になっている。

 

2007年09月10日

足尾機械 足尾工場 1

足尾機械 足尾工場  外観 1

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足尾機械 足尾工場 2

足尾機械 足尾工場  緑十字 2

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足尾機械 足尾工場 窓と壁 3

足尾機械 足尾工場  窓と壁 3

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足尾機械 足尾工場 山車 4

足尾機械 足尾工場 山車 4

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足尾機械 足尾工場 天上 5

足尾機械 足尾工場 天上 5

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足尾機械 足尾工場 天上 5

足尾機械 足尾工場 天上 5

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足尾機械 足尾工場 地 6

足尾機械 足尾工場 地 6

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足尾機械 足尾工場 その他 7

足尾機械 足尾工場 その他 7

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2007年09月12日

わたらせ砂防70周年 ふりかえれば未来新聞

わたらせ砂防70周年 ふりかえれば未来新聞に「銅でにぎわう足尾 その光と影」掲載!

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未来新聞 足尾2.jpg

日光市生涯学習情報紙 にこにこ掲載 「思いを馳せよう!足尾まつり」

日光市生涯学習情報紙 「にこにこ」8月発行を見つけました。

掲載は、「思いを馳せよう!足尾まつり」

ブログで5月に、足尾まつりを紹介した。

年々縮小し、継続の危機すら耳にする事があるが、まだまだ諦めていない人たちもいる。

明治、大正、昭和初期のような、地域の住民が本当に盛り上がる足尾祭りの日を期待したい。

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2007年09月16日

赤倉の南橋付近のガソリンスタンド跡

赤倉の南橋付近の灯油の給油機発見!

これは古い・・・・・・スタイルが良いので撮りました。

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なかなかかっこいいです。

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名前は、TOKIKO

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前のおばちゃんが出てきた・・・・「怒られるか!」

すると、「そんなに面白いのかい」・・・・・・・

この間も誰か写真撮ってたよ。 まだ使っているからね 「それ」・・・・・

使用期限は、平成25年12月まで 栃木県とある。 まだまだ頑張ってほしい。

今度は、もうすこしいいカメラで、白黒で撮ってみようなどと考えながらその場を後にした。 

 

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このロゴも気に入っている。

 

2007年09月20日

銅山街道 「江戸経済を担う」 1

銅山街道 「江戸経済を担う」  1

銅山街道 シリーズ5 表紙.jpg

銅山街道 場所.jpg

銅山街道 「江戸経済を担う」 2 足尾

銅山街道 「江戸経済を担う」 2 足尾

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足尾の歴史は、銅山とともにあり、銅鉱脈は、慶長十五年(1610)に発見。その後この銅山は、幕府直営の銅山として発展、この地を治めた代官は、42人という。この銅を江戸へ運んだ道が「あかがね街道と呼ばれた。明治時代になり、一時は、衰退していた銅山が古河市兵衛の手腕で新しい銅山に生まれ変わり東洋一の生産量を誇る。しかし、昭和も後半になると産出も年々減少し、昭和48年2月古河鉱業は、閉山し、長い歴史の幕を閉じる。今の足尾は、観光を主とした町興しを進めている。「足尾銅山観光」温泉を利用した施設の充実。坑内から出る廃泥を利用した「足尾焼」など、恵まれた自然を生かしたハイキングコースや銀山平公園や銅親水公園の整備を進め、いま観光足尾を進めている。

銅山街道 「江戸経済を担う」 3 東村(勢多郡)

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銅山街道の宿場町として、沢入・花輪に銅問屋が設けられたのは、慶安二年(1649)という。また、銅山街道は日光東照宮参拝や男体山登山にも使用されたので、沢入・神戸・花輪は宿場町として賑わった。 「善雄寺の窖薬師は、当山第?慶和尚が人々の病気やけがを救う悲願をたて境内に穴を掘り、生仏として人定、薬師仏となって、今でも人々の信仰を集めている。現在は観光に「兎と亀」など多くの動揺を作詞した石原和三郎の功績をたたえる「動揺ふるさと館」。今話題の詩画・星野富弘の富弘美術館。草木湖一望する国民宿舎「サンレイク草木」など観光資源が豊富。

銅山街道 「江戸経済を担う」 4 黒保根村

銅山街道 黒保根村.jpg

銅山街道が開通すると街道沿いの水沼や宿廻りでは銅山付助郷の御用勤めが多くなった。また、前橋藩の重要な鉱山や木材の産地であった根利と前橋を結ぶ街道も通り、この二つの街道により発展をとげる。赤城山麓にふさわしい赤城信仰に関する寺で、上田沢の「医光寺」には虚空蔵菩薩像がある県重文。常鑑寺梵鐘も県重文。「わたらせ鉄道」の駅の温泉で知られる「水沢温泉センター」が6月29日(土)リニュアルオープン。全国でも貴重な「水源村」宣言をして、水源村宣言記念広場に「水源村」「宣言文」の記念碑ができた。

銅山街道 「江戸経済を担う」 5 大間々町

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銅山街道は始めは、大間々宿にあり、高草木家が銅間屋を務めていたが、大間々宿が前橋藩酒井家所領に編入になったので、延享 年(1746)に桐原宿に変更となった。桐原宿銅問屋は藤生家で銅蔵も現存。桐原郷蔵は「世音寺」の境内にあり、飢饉に備えたもので、蔵とともに宿の文章や、資料もあり資料と併せて県の重文に指定されている。万治年間には絹市が併合され大繁盛し桐生絹市との競合問題にもなった。現在は「わたらせ鉄道」の発着地として、高津戸峡や小平鍾乳洞、親水公園、キャンプ場など観光資源も多い。

銅山街道 「江戸経済を担う」 6 笠懸町

銅山街道 笠懸町.jpg

岩宿遺跡の発見以後、人類の歴史はさらに古く三万年もの昔の日本列島の様子が「岩宿文化資料館」で学べる。江戸時代に、岡上景能が代官として赴任、本格的に笠懸町の開発に取り組み、銅山街道の整備と新田開発をした。そして、久々宇や桃頭の村が誕生した。笠懸野開発拠点とした鹿の川陣屋、この近くに岡上景能公の墓所「国瑞寺」がある。この寺は景能公が開発した村の人々に精神的よりどころとして景能公自身が建立。また、景能公の銅像が建立され、早川石材工業の施行。「岩宿の里」では古代人の生活や資料が展示され楽しく学ぶことが出来る。

2007年09月21日

足尾銅山と足利学校 世界遺産候補に推薦「9月21日下野新聞 1面」

文化庁による世界文化遺産候補の公募に、本県から足尾銅山と足利学校が、9月26日世界遺産候補に推薦。

新聞記事足尾銅山世界遺産にむけ日光市登録推進検討委が提案書原案で紹介ましたが、いよいよ文化庁へ提出です。

足尾銅山は、「足尾銅山の近代化」「環境問題対策」「鉱害防除去の歴史と技術」をアピール、足利学校は、「足利学校のヨーロッパや東アジアとの文化交流」「室町幕府を創設した足利氏ゆかりのばん阿寺と樺崎寺」「文化財保護活動」を提出。

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足尾銅山の世界遺産を推進する会 11月地元でシンポ!

下野新聞9月21日 4面記事「足尾銅山の世界遺産記事3連発」

足尾銅山の世界遺産を推進する会 11月25日、足尾町通洞の市民センターでシンポジウム開催。

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2007年09月24日

銅山街道 「江戸経済を担う」 7 藪塚本町

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大間々扇大地(笠懸野)開発に力を注いだのが岡上景能。景能公は当地の代官に就任するやこの地の開発に着手。特に足尾銅山の銅を早く確実に江戸へ運ぶために、街道(銅山街道)の整備を進めた。寛文4年(1664)岡上用水の開さく工事に着手、同12年4月に完成したという。この岡上用水は銅山街道の整備のため、新しい街道と町割り、人々の生活用水としても利用しようと街道沿いに用水路を開さくし、新田開発も行なった。こうして本町村・六千石村・大久保村などが誕生、銅山街道の宿場として「大原宿」がつくられた。銅問屋西村家。新しい村の精神的なよりどころとして神社や寺院(四寺)も景能公は建立した。神明宮(この境内に岡登霊社が祀られている)・大久保の赤城神社・大原の大原寺、他に笠懸町の国瑞寺がある。菓匠青柳では「岡登まんじゅう」を名物として製造販売をしている。やぶつか温泉郷、温泉の近くには、小説「木枯らし紋次郎」の舞台を再現した「三日月村」や世界の蛇を展示、学術的拠点となっている「ジャパン・スネークセンター」。つつじ山公園には、細川雄太郎の詩「あのこはだあれ」の童謡の碑もある。

2007年09月27日

足尾銅山 世界遺産へ提案書提出 下野新聞 TOP面

足尾銅山 世界遺産へ提案書提出 下野新聞に掲載された。

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足尾銅山 世界遺産へ提案書提出 下野新聞 3面

期待感と慎重姿勢と 世界遺産登録へ提案書

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2007年10月03日

足尾銅山 全景 下野新聞「水紀行」9月30日掲載

足尾銅山製錬所の全景を山頂から撮影した写真が掲載された。

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製錬所 全景 UP.jpg

荒れ果てた山に希望を植える

永遠の緑を想像しながら・・・

人間の知恵信じたい

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本山小学校前の古い鉄橋

本山小学校前に、古い鉄橋がある。

分厚い鉄板を重ねた黒い橋、重厚な威圧感を放っている。

後日調べてみる事にした。報告を期待してほしい。

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この鉄橋から見えた、本山までの線路の跡

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同じくこの鉄橋から見えたトンネルの跡

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2007年10月10日

アノード板 102キロ

足尾銅山観光に展示してあるアノード板は、102キロもあります。

電気精銅のために作られた粗銅で、上部両端には、粗銅の電解の際に電極にかけられる把手がある。

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2007年10月14日

世界遺産候補 選定協議入り 下野新聞10月16日

世界遺産候補 選定協議入り「足尾銅山などの公募」

文化審議会の特別委員会は、10月15日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産の登録に向け、公募で寄せられた地方自治体の提案の中から国内候補を選定する協議に入った。

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2007年10月17日

かじか荘のレストランメニュー NO.1

国民宿舎かじか荘のレストランメニューは、面白い!(食べたくなる)

銅山(やま)のレストランメニュー ~抗夫、その食文化の歴史とストーリー~ NO.1

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銅山で働く鉱夫は厳しい労働に耐えるため肉食を好んで食べました。当時豚肉が手に入らないため鶏をカツフライにして食べて栄養補給をしたそうです。鉱夫の気分になってご賞味下さい。

かじか荘のレストランメニューNO.2

国民宿舎かじか荘のレストランメニューは、面白い!(食べたくなる)

銅山(やま)のレストランメニュー ~抗夫、その食文化の歴史とストーリー~ NO.2

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鉱夫の女房は、1番方(AM6:00出勤)の夫を見送った後、ささやかな朝食を食べたそうです。当館ではそのメニューを忠実に再現しました。健康志向の現代人にぴったりなヘルシーメニューです。

かじか荘のレストランメニューNO.3

国民宿舎かじか荘のレストランメニューは、面白い!(食べたくなる)

銅山(やま)のレストランメニュー ~抗夫、その食文化の歴史とストーリー~ NO.3

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鉱夫の休日は朝から仲間と集まって山で獲ったキジや山鳥を焼いて、どんぶり飯にあんかけを豪快にぶっかけて食べる。その姿は、まるで山賊のようだったそうです。

かじか荘のレストランメニューNO.4

国民宿舎 かじか荘のレストランメニューは、面白い!(食べたくなる)

銅山(やま)のレストランメニュー ~抗夫、その食文化の歴史とストーリー~ NO.4

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銅山で大鉱脈が発見されると「大直利」だと工夫は喜びました。銅山はお酒と当時貴重な豚肉を振舞って鉱夫の苦労に報いました。鉱夫はそれをしょうが焼きにして食べたそうです。

かじか荘のレストランメニューNO.5

国民宿舎 かじか荘のレストランメニューは、面白い!(食べたくなる)

銅山(やま)のレストランメニュー ~抗夫、その食文化の歴史とストーリー~ NO.5

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銅山の勤務は24時間交代制でした。1番方(朝6:00出勤)、2番方(昼3:00出勤)、3番方(夜11:00出勤)この3番方の夕食は真夜中になる為、簡単に食べられるかっ込丼が喜ばれました。

この他に、銅山(やま)のライスカレー(鉱夫も食べた懐かしい味) ¥840(税込)や、一品料理・麺類もあるそうです。食べながら足尾を学べるレストランですね! 実際に食べて写真をUPしたいです。

 

かじか荘のレストランメニューNO.5

国民宿舎 かじか荘のレストランメニューは、面白い!(食べたくなる)

銅山(やま)のレストランメニュー ~抗夫、その食文化の歴史とストーリー~ NO.5

三番方丼.jpg

銅山の勤務は24時間交代制でした。1番方(朝6:00出勤)、2番方(昼3:00出勤)、3番方(夜11:00出勤)この3番方の夕食は真夜中になる為、簡単に食べられるかっ込丼が喜ばれました。

この他に、銅山(やま)のライスカレー(鉱夫も食べた懐かしい味) ¥840(税込)や、一品料理・麺類もあるそうです。食べながら足尾を学べるレストランですね! 実際に食べて写真をUPしたいです。

 

2007年10月18日

わたらせ社宅の共同トイレはモダン!

わたらせ社宅の共同トイレはモダン!

トイレではあるが、なぜか美しいと感じてしまった。

トイレ わたらせ2.jpg

わたらせ社宅のトイレは 和風モダン1.jpg

2007年10月22日

足尾銅山の鉱石「孔雀石」

足尾銅山の鉱石「孔雀石」を頂ました。

この青の深さに魅了させられてしまいます。

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孔雀石

深い緑色と、カットしたときに表れる独特の縞模様が大きな特徴となっています。この緑色が「ゼニアオイ」という植物に似ていることから、ギリシャ語でこの植物を意味する "malacha" に由来してマラカイトと名付けられました。また和名の孔雀石は、石の模様が孔雀の羽模様に似ていたことに由来しています。

 この石が採掘される環境は銅床となっている場合がほとんどで、形成成分にも銅が多く含まれています。単斜晶系という結晶系に属してはいますが、塊状や粒状で発見される場合がほとんどで、結晶の形で発見されることはほとんどありません。しかし、まれにトゲを密集させたような針状結晶のものが発見されることもあります。これは塊状のものとは全く違った形状をしており、規則的な形を成しているのが見てわかります(寒い地方でよく見られる霜に似ています)。

2007年10月23日

足尾の四季

足尾の四季

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足尾の四季・庚申山の歌楽譜表紙

「足尾の四季」 作詞作曲 青山勇  補曲 関根 寿美子

1、春晴千里水清く 霞とまがふ桜花 はる酣の渡良瀬や

2、夏庚申の滝の根 緑滴る満山に 雲紅の夕日影

3、薄戦く山の峰 脱硫塔の影黒く 月中天に秋深し

4、男体颪吹き荒れて 白皓々の備前建楯 幌馬車急ぐ暮れの町

<足尾の四季製作時不詳、昭和初期の作と推定>

目で見る足尾の百年より <発行者>足尾AV企画センター

 

 

庚申山の歌

庚申山の歌

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足尾の四季・庚申山の歌楽譜表紙

庚申山の歌

1、親しき友よ打連れて 庚申山に遊歩せん 春は八汐に石橘花に 秋は紅葉の綾錦

2、小滝銀山越え行けば 谿は狭りて千尋の 仙境に入る心地して 揺れる心地して

3、滝の飛沫は雲と湧き 響谷間にこだまして 山吹つつじ蔓葛 八汐の葉蔭五光岩

4、昼尚暗き樹々の下 景色をめでて杖ひけば 道のほとりに幾千の 天狗の投石面白や

5、峰に友呼ぶ鹿の声 木の間を渡る猿の群 疲れを憩ふ休み茶屋 一の鳥居の登り口

6、登れば程なく大鳥居 やがて神社の拝殿ぞ 谷は開けて四方の峰 花も紅葉も美しや

7、礼拝をへて一休み 渋茶に喉をうるほして お山廻りにいざゆかん 水牛石や蛙石

8、百間幕や鳥帽子岩 天狗の腰掛文字石 空に聳ゆる石門を 潜れば眺め麗しや

9、海抜六千余尺なる 奇岩霊石萬形の 苔むす岩に庚申草 世に珍しき国草よ

10、鎖にすがり横這いの 親子知らず難所をば 無事に渡れが岩が根の 鬼の髭すり見渡し台

11、昔勝道正人が祈願行場の遺跡あり 名勝の地庚申の 命を祭る奥の院

12、更に登れば剣が峰 足尾連山一望に 眺めは広く男体も 指顧の間に見ゆるなり

<庚申山の歌制作時期不詳、昭和初期の作と推定>

目で見る足尾の百年より<発行者>足尾AV企画センター

 

足尾銅山 産業遺産群に 下野新聞10月23日掲載 NO.1

経済産業省が、日本の近代化をけん引した歴史的な工場跡や、鉱山などに「産業遺産群」を認定する。経済産業省原案、地域活性化へ全国300ヶ所を個別遺産で構成。産業遺産活用委員会で議論し、11月30日横浜で開かれる同省主催シンポジュウムで認定式を行なう予定。

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足尾銅山 産業遺産群に 下野新聞10月23日掲載 NO.2

経済産業省が地域活性化一環として今年から認定を始めた。

近代化、テーマ別に紹介し、偉人や有名企業も盛り込んでストーリ性を持たせた点が特徴。

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2007年10月25日

昭和初期の保安帽

昭和初期まで使用された足尾銅山の保安帽

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硬い皮製です。 プラスチックのヘルメットになるまでは、こちらを使用したようだ。

かぶってみたが、やはり皮製なので小さい石の落石でも少々心配な気がした。

本当に命がけである。

カーバイトカンテラ 2

カーバイトカンテラ を保安帽に装着タイプ

以前にカーバイトカンテラを紹介したが、新たしいタイプを見つけたので紹介します。

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保安帽 カンテラ UP.jpg

Kカンテラ+帽子 いらすと.jpg

残念ながらつないでいたホース状のラインは、見あたらなかったので手書きしてみました。

 

2007年10月28日

抗夫浴場跡の追加情報

抗夫浴場跡の追加情報

小滝へいって来ました。 抗夫浴場跡で写真を紹介しました。

何故外側と内側に分かれているか不思議に思っていました。話を聞くところによると、外側の湯で汚れきった体を洗い流し、さっぱりしたところで内側の湯に入るそうです。社宅へ戻ると共同浴場が有りましたが抗夫は利用せず、女性や子供が主に利用したそうです。

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足尾芸術際 

日光市民文化祭 第二回 足尾芸術際を見てきました。

今回のテーマは、「極」

すばらしい作品が展示されていました。足尾小学校の「あかがね太鼓少年隊」にもう少しで間に合いませんでした。

足尾芸術際 ポスター.jpg

足尾芸術際ポスター

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足尾芸術際案内

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すばらしいですね!

2007年10月30日

日光そばまつり 市内各地連携 下野新聞掲載

今市JC11月例会 「いってみっけ日光」 再び新聞掲載 10月30日

沢山の方々のご来場心よりお待ちしております。

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2007年10月31日

10/31 足尾の紅葉

10/31 足尾の紅葉情報

旧日光から、日足トンネルを抜けた風景です。 

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2007年11月01日

広報にっこう 11月号に「足尾銅山を世界遺産へ」が掲載

足尾銅山の世界遺産へ

足尾銅山の世界遺産登録へ向けてのコンセプト、構成資産の概要、世界遺産登録についてなどが紹介された。

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古河橋のハーコート社の銘板

古河橋のハーコート社の銘板を撮影してきました。

古河橋を撮影してきました。で紹介しましたが「ハーコート社の銘板」の画像が有りませんでしたので追加しました。

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年代を感じる銘板は、それだけで絵になります。

足尾銅山を世界遺産に 11/25シンポジュウム

足尾銅山を世界遺産に 11/25 シンポジュウムが開催される!

場所:日光市足尾市民センター 

日時:19年11月25日(日) 13:00~15:45

基調講演 

演題:足尾銅山の世界遺産の価値 -日本の近代化・産業化と公害対策の起点-

講師:永井 護 氏 (宇都宮大学工学部教授・工学博士)

アトラクション:足尾石刀節

パネルディスカッション:

コーディネーター:若林 春美氏(下野新聞社編集委員)

パネラー  : 河東 義之氏(千葉工業大学教授・工学博士)

       : 小野崎 敏氏(日鉄鉱業株式会社名誉顧問)

       : 近藤 功氏(富岡製糸場世界遺産伝道協会会長)

       : 永井 護氏(宇都宮大学工学部教授・工学博士)

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2007年11月02日

市議会からこんにちは 銀山平キャンプ場(足尾)の紅葉

市議会からこんにちは 銀山平キャンプ場(足尾)が表紙掲載10月25日発行 NO.6

紅葉がピークを迎えています。

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銀山平キャンプ場(足尾)

銀山平キャンプ場は、足尾地域の西部に位置し、バンガロー、テントサイトや生産展示直売所などを備えたキャンプ場です。隣接する「国民宿舎かじか荘」では、日帰り入浴ができます。なお、紅葉のみごろは10月下旬から11月中旬です。(キャンプ場の営業期間は4月1日~11月30です。)

市議会からこんにちは表紙うより

 

2007年11月05日

今市JC11月例会 「いってみっけ日光」無事終了しました。足尾茶屋マップA

足尾茶屋マップの地図を紹介します。

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今市JC11月例会 「いってみっけ日光」無事終了しました。足尾茶屋マップ「歴史めぐり」

今市JC11月例会 「いってみっけ日光」無事終了しました。足尾茶屋マップ「歴史めぐり」

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足尾銅山で採掘された鉱石 黄銅鉱 NO.1

足尾銅山で採掘された鉱石 黄銅鉱 NO.1

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黄銅鉱(おうどうこう)は銅の硫化鉱物の一つ。英名である「キャルコパイライト」は、ギリシャ語で銅を意味する「キャルコ」と、火を意味する「プリテス」とが組み合わさったもの。「黄銅」鉱という名前だが、これを精錬して黄銅(真鍮)をとる訳ではない。銅と鉄、硫黄からなり、化学組成:CuFeS2で表される。微量の金、銀、錫、亜鉛などを含み、少量のニッケルやセレンを含むものもある。最も重要な銅の鉱石鉱物。色は普通、真鍮様の黄色であるが、かなり黄色味の薄いものも珍しくは無い。そのようなものはしばしば黄鉄鉱と見分けるのが難しい。金属光沢を持つ。表面の色は時間とともに変わりやすく、黒みを帯びていく。条痕色は緑黒色。外見は黄鉄鉱と似るが、黄鉄鉱よりも黄色味が強い傾向があることや条痕色により区別できる。

足尾銅山で採掘された鉱石 黄銅鉱 NO.2

足尾銅山で採掘された鉱石 黄銅鉱 NO.2

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黄銅鉱(おうどうこう)は銅の硫化鉱物の一つ。英名である「キャルコパイライト」は、ギリシャ語で銅を意味する「キャルコ」と、火を意味する「プリテス」とが組み合わさったもの。「黄銅」鉱という名前だが、これを精錬して黄銅(真鍮)をとる訳ではない。銅と鉄、硫黄からなり、化学組成:CuFeS2で表される。微量の金、銀、錫、亜鉛などを含み、少量のニッケルやセレンを含むものもある。最も重要な銅の鉱石鉱物。色は普通、真鍮様の黄色であるが、かなり黄色味の薄いものも珍しくは無い。そのようなものはしばしば黄鉄鉱と見分けるのが難しい。金属光沢を持つ。表面の色は時間とともに変わりやすく、黒みを帯びていく。条痕色は緑黒色。外見は黄鉄鉱と似るが、黄鉄鉱よりも黄色味が強い傾向があることや条痕色により区別できる。

2007年11月08日

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 表紙

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 表紙

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 古河市兵衛翁

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 古河市兵衛翁

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 本山製錬所全景

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 本山製錬所全景

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 小滝中央工場全景

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 小滝中央工場全景

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 有木抗口前にて

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 有木抗口前にて

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 馬車鉄道貨物運搬

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 馬車鉄道貨物運搬

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 間藤電気原働所

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 間藤電気原働所

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 銅山構内電気鉄道

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 銅山構内電気鉄道

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 製銅炉工場

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 製銅炉工場

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 脱硫塔築造「夜景」

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 脱硫塔築造「夜景」

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 脱硫塔の築造風景

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 脱硫塔の築造風景写真

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 赤倉製錬所

足尾銅山と写真師 小野崎一徳  赤倉製錬所

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 本山地区全景

足尾銅山と写真師 小野崎一徳  本山地区全景

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 抗口

足尾銅山と写真師 小野崎一徳  抗口

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 撰鉱所内部

足尾銅山と写真師 小野崎一徳  撰鉱所内部

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 足尾銅山を訪れた田中正造

足尾銅山と写真師 小野崎一徳  足尾銅山を訪れた田中正造

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳 私立足尾銅山小学校

足尾銅山と写真師 小野崎一徳  私立足尾銅山小学校

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足尾銅山と写真師 小野崎一徳

足尾銅山と写真師 小野崎一徳 

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2007年11月10日

足尾の舟石線を走りました。NO.1本山抗跡周辺

足尾の舟石線を走りました。NO.1 本山抗跡周辺

国道122号線を間藤方面に曲がり、古河橋を左折すると舟石線(舟石峠)である。舟石線は足尾銅山の本山鉱から国民宿舎「かじか荘」までをつなぐ道で約6㎞の林道です。

足尾銅山の本山坑方面から国民宿舎「かじか荘」へ向かいました。

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足尾の舟石線を走りました。NO.2本山抗跡周辺 パイプ

足尾の舟石線を走りました。NO.2本山抗跡周辺  パイプ

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足尾の舟石線を走りました。NO3 本山抗跡周辺 電線

足尾の舟石線を走りました。NO3 本山抗跡周辺 電線

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2007年11月11日

足尾の舟石線を走りました。NO.5 本山鉱山神社

足尾の舟石線を走りました。NO.5 本山鉱山神社

本山の山腹にあり、明22年に抗長(古河鉱業株式会社足尾鉱業所長)木村長七以下、本山抗に働く鉱員達の寄進により造営されたもので、足尾銅山の山神社としては、最古のものである。鉱山神社はふつう山神社といわれ大山祗命、金山彦命、金山姫命の三神を祀るってある。昔は本山抗のかたわらに小祠としてあったものを、ここに新たに神社を建設して移したもので、本殿は流れ造りである。

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足尾の舟石線を走りました。NO.6 閉山直前の本山の様子

足尾の舟石線を走りました。NO.6 閉山直前の本山の様子

本山は、、本山抗・鷹の巣抗の開抗につづき、明治17年〔1884〕に有木抗(本山抗)が開発されると同時に、鉱業所・選鉱所・精錬所・医局などの施設がおかれ、その後火力発電所や本山小学校の前身となる学校が設けられたりして、名実ともに足尾銅山の中心として大きく発展し、足尾は日本一の銅山になったのです。明治40年に、本山の労働争議をきっかに、鉱業所が掛水へ移りましたが、本山は北部地域最大の集落に形成されました。しかし、昭和48年(1973)2月28日に、足尾銅山が閉山となり、本山には、そのとき138世帯477人(10年前の昭和38年4月には、290世帯1167人)が住んでいましたが、その年の8月に遂に無人となりました。今は、鉱山神社がぽつりと、”つわものどもの夢の跡”を見守っているだけとなりました。

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足尾の舟石線を走りました。NO.7 現在の本山抗

足尾の舟石線を走りました。NO.7 現在の本山抗

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2007年11月12日

足尾の舟石線を走りました。NO.8 狸堀り跡

足尾の舟石線を走りました。NO.8 狸堀り跡

江戸時代の鉱脈の掘り方は、自分だけが入れる狸穴に似た狸堀りであった。足尾銅山でも対岸の沢沿いに多く見られる。

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足尾の舟石線を走りました。NO.9 峠前の景色

足尾の舟石線を走りました。NO.9 峠前の景色

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足尾の舟石線を走りました。NO.9 石積みの水路では?

足尾の舟石線を走りました。NO.9 石積みの水路ではかと思います。

かなりの急斜面、水路だとしても滝のような勢いで流れそうです。「後日調査します。」

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足尾の舟石線を走りました。NO.10 鷹の巣抗

足尾の舟石線を走りました。NO.10 鷹の巣抗「対岸の中腹にあった古河の最初の直営抗」

足尾銅山は、明治10年(1877)に古河市兵衛が経営するまでは、下稼人(山師)の請負で採掘していた。当時38人の下稼人が70余の坑道を稼動させていたが、市兵衛は古河の直営抗を進め、同13年に休止していた鷹の巣抗の開発に着手し、草倉銅山(新潟)から精鋭の抗夫を投入するとともに、採掘方法に発破を採用し直利(富鉱)を発見、更に新らしい技術と設備を次々に導入し、足尾銅山の拠点となる主抗の開発に成功し日本一の銅山となっていった。

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対岸の中腹を撮影しました。

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足尾の舟石線を走りました。NO.11 峠の景色「熊笹」

足尾の舟石線を走りました。NO.11 峠の景色「くま笹」

くま笹と木々の景色が印象的でした。

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足尾の舟石線を走りました。NO.12 舟石

足尾の舟石線を走りました。NO.12 舟石

舟石には、明治のはじめ数戸の家が、農業を営み生活をしていました。当時は、この地を岩魚が多くとれたので「魚の沢」とよんでいましたが、足尾銅山を開発した古河市兵衛が、明治30年代この地をおとずれたとき、この舟の形した石を見て「舟石といったらどうか」といわれたことから「舟石」の地名がついたということです。舟石の最も栄えたのは、大正7年(1918)のころで47戸の家が点在していましたが、徐々に少なくなり、昭和29年には、全く住む人がいなくなってしまいました。往時を物語る石碑が、今も山の上に残されています。

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足尾の舟石線を走りました。NO.13 中国人殉難烈士慰霊塔

足尾の舟石線を走りました。NO.13 中国人殉難烈士慰霊塔

太平洋戦争の末期、中国から強制連行されて来た257名が、足尾銅山の労働に従事し109名が殉難された。

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足尾の舟石線を走りました。NO.14 銀山平キャンプ場

足尾の舟石線を走りました。NO.14 銀山平キャンプ場「枯葉の絨毯」

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足尾の舟石線を走りました。NO.15 1610銅山発見 治部と内蔵

足尾の舟石線を走りました。NO.15 1610銅山発見 治部と内蔵

備前楯山(1273m)は、足尾町の中央に位置する山で、かつての足尾銅山採鉱の主要地域として有名です。慶長15年(1610年)、備前国出身で当時の足尾郷の農民であった治部(じふ)と内蔵(くら)がこの山で露頭している銅鉱石を発見し、日光座禅院座主に報告しました。座主は2人の功績を記念して、この山を農民の生まれた国の名前をとって「備前楯」(びぜんたて)と名付けました。楯とは、銅鉱石の露頭のことです。

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2007年11月13日

庚申山の梵天岩

庚申山の梵天岩(ぼんてんいわ)、紅葉の名所でもある。

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2007年11月14日

足尾銅山で造られた足字銭鋳造枚数の間違い

足尾銅山で造られた足字銭鋳造枚数の間違い

「足字銭」の正確な名称は、「足尾銭」と称されている。寛永通宝の一文銭の背面に「足」の字が掘られていることから通称「足字銭」と称された。

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「五年間で2千万枚鋳造」と書物や文章に残っているが、2006年3月3日足尾町教育委員会・足尾町文化財調査委員会が発行した「足尾銅山の産業遺産」では、およそ2億1千万枚余りと改められている。

最後に「流通枚数の多さからして古銭の収集家からすれば、足字銭の希少価値は、低い方である。しかし足尾として、足尾銅山としての歴史の中での独自の文化遺産であることを銘記したい。」とあり、さらに「誰しも足尾縁の人達であれば、足字銭という小片を手にしたとき、郷土の先人達の命をかけた魂に思いを馳せることであろう。」と括っている。

2007年11月15日

古河足尾銅山写真帖 が国立国会図書間「近代デジタルライブラリー」で閲覧

明治28年に発表された小野崎一徳の『古河足尾銅山写真帖』(ブログで紹介した)がIT上の、国立国会図書間「近代デジタルライブラリー」で閲覧ができます。小野崎一徳『古河足尾銅山写真帖』是非ご覧下さい。

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タイトル:古河足尾銅山写真帖

責任表示:小野崎一徳編

出版事項:足尾町(栃木県):小野崎一徳,明28.7

形態:図版70枚;11×15cm

著者標目:小野崎,一徳(1861-1929)

西暦年:1895

 

 

自熔製煉法の構造

自熔製煉法の構造

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円筒形の鉱石反応室の下に反射炉をおいた構造で、微粒子の乾燥精鉱を約600℃の熱風で浮かし炉頂より高熱の反応室に吹き込み、溶鉱炉の数千倍の反応速度で鉱石中の硫黄分および鉄分が酸化し、その酸化熱で炉内は約1300℃の高温になり数秒間で銅分は焙焼と熔煉をほとんど同時に完了する。精鉱は雨滴の状態で反射炉部に落下し、ここで、鈹「かわ」(銅などの重金属を含む硫下鉱を製煉するときにできる中間生成物で熔鉱炉で融解すると底に沈む不純な硫化物:大辞泉)鍰「からみ」(金属の精煉に際して金属から分離して浮かぶ滓:大辞泉)とガスにわかれ、この高温の排ガスの熱を炉外の熱交換機で熱風として回収し、再び自熔炉に熱を送り返す、こうして無燃料操業を行なうのみならず、さらに余熱を発電等にも利用できる。また、金・銀・鉛・錫・蒼鉛・砒素の副製品の回収も可能である。溶鉱炉とは、全く異質な設備である事が理解できる。自熔製煉法の成功は足尾銅山のみならず日本の鉱業界にとっても画期的な製煉法であり、この技術に古河の卓越した技術力をもって、更に改良が加えられた自熔炉で、古河式(足尾式)自熔製煉法と注目され、後にその実績が国内外において高く評価された。

2006年3月3日足尾町教育委員会・足尾町文化財調査委員会 発行 「足尾銅山の産業遺産」より

 

 

北海道佐呂間町と足尾銅山の関係

北海道佐呂間町と足尾銅山の関係

・明治34年(1901)足尾鉱毒問題を田中正造が天皇直訴事件。

・明治37年(1904)鉱毒問題対策の渡良瀬遊水地構想(洪水防止対策で国費で実施)。

・明治40年(1907)谷中村遊水地化に土地収用法の適用。 谷中堤内残留民家屋16戸を強制破壊。

・明治44年(1911)谷中村民16戸137人、北海道サロマベツ原野に移住。

・昭和12年(1937)北海道移住した旧谷中村民、帰郷請願書を栃木県知事に提出。

『佐呂間町字栃木のルーツは、栃木県旧谷中村』である。

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2007年11月16日

小滝小学校跡の台座の上は、二宮金次郎の銅像と判明

小滝小学校跡の台座の上は、二宮金次郎の銅像と判明

小滝小学校・第3中学校跡でUPしました7枚目、台座の画像の上部が二宮金次郎の銅像であった事が分かりました。小滝小学校卒業された方に確認を取りました。戦前、国民の「向学心の象徴」として各地に建てられていた金次郎の銅像は戦時中、皮肉にも鉄砲の弾やゼロ戦の部品にその姿を変え「報国」を果たそうです。

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二宮尊徳

「天保の大飢饉が起こった時、小田原藩主は無一文から家を興し有名になっていた農民金次郎を抜擢し、飢えで苦しむ領民の救助に当たらせた。金次郎は、規則に縛られる役人たちや財産を失うことを恐れる豪農層と対立しながら瀕死の困窮民の支援に奮闘。小田原領の貧民四万人を一人の餓死者もなく救うことに成功した」のであります。
金次郎はその後、至誠・勤労・分度・推譲の「報徳精神」を愛情深く説いて回り、多くの村々を極貧や飢餓から復興させました。その数は全国で600にも上るといわれています。

足尾と二宮尊徳「日光神領復興仕法」

足尾と二宮尊徳「日光神領復興仕法」

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嘉永6年(1853) 幕府より日光神領復興仕法着手の下命。

同年6月29日、真岡東郷陣屋を出発し日光へ向かう事となる。

足尾への神領廻村

同年8月13日 古峰ヶ原を出発し足尾の向かったが雨天悪路のため変更して草久村の蕗平と河原小屋を視察、両地区を合わせて8人の貧窮者に資金を給与し、古峰ヶ原に戻って神官宅に止泊。

同年8月14日 古峰ヶ原を出発し、峠を越えて足尾の赤沢村に着、村役人宅泊。銅山役員から銅山案内の申し込みをうけ、貧窮者1名に資金を給与づる。

同年8月15日 赤沢・新梨子村・仲居村・遠下村・原村・唐風呂村を見分。遠下村で妙見神社参拝 銅山坑内視察 銅山 銅山権限前の川原石が鉱毒で鉱毒で赤錆色になってのお見る。赤沢村泊

同年8月16日 赤沢村発 掛水・間藤駅・赤倉村・九蔵村・松木村・仁田元村・高木木村を見分 村々の貧窮者に資金給与 神子内村名主宅泊。

同年8月17日 神子内村で精励農民に褒美金を支給し、峠を越えて細尾村着  細尾村の植林精励に賞与金を与え、清滝村で新掘開削について村役人と話し合う。清滝観音に参詣して夕刻日光着 奉行所へ帰着報告をする。

日光市文化協会今市支部ふるさと部編より抜粋


在りし日の小滝小学校全景

在りし日の小滝小学校全景

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小滝小学校・第3中学校 跡 7枚目の画像「台座」と、小滝小学校跡の台座の上は、二宮金次郎の銅像と判明

確かに金次郎の銅像と確認できますか!

 

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小滝小学校跡で紹介しました階段が確認できます。

画像は、足尾町教育委員会・足尾町文化財調査委員会 発行 「足尾銅山の産業遺産」より

明治30年まで稼動していた小滝製煉所

明治30年まで稼動していた小滝製煉所

小滝の里の正面に足尾銅山の小滝製錬所・選鉱所 跡があります。
小滝抗が開抗され、この地に製錬所(明治30年廃止)・選鉱所(大正9年廃止)が設けられた。

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画像は、足尾町教育委員会・足尾町文化財調査委員会 発行 「足尾銅山の産業遺産」より

愛宕下社宅の消毒作業

愛宕下社宅の消毒作業

昭和27年(1952)の愛宕下社宅の生活感のある画像を見つけました。

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目で見る足尾の百年 代5集より

 

足尾銅山の歴史

 足尾町は、まわりを大小の山々に囲まれた谷間の町です。銅が発見されるまでは、人里はなれたひっそりとした山村でした。
 こんな山の中にも、数千年前の縄文時代のころから人々が住みついていたそうです。時が流れて慶長15(1610)年、備前楯山で二人の男によって銅が発見されたと言われています。その後、江戸幕府直営の鉱山として大いに栄え、“足尾千軒”といわれる程、人家も建ちならびました。そして、足尾でとれた銅は日本中で使われたほか、遠く外国へも送られました。
 東照宮や江戸城、芝の増上寺、上野の寛永寺の屋根に使われたり、寛永通宝(足字銭)というお金にもなり、約2億枚が製造されました。
 しかし、しだいに銅があまりでなくなり、廃山のようになってしまいました。
 明治10(1877)年になって「古河市兵衛」が経営するようになりました。そして当時日本の鉱山としてはいちばん新しい技術や設備をとり入れたので、銅山は急速に発展し、我が国の産銅の約半分近くを生産し東洋一の銅山とよばれるようになりました。
 大正5(1916)年には人口も、38、428人に達し、県内では宇都宮市(5万8千余人)に次ぐにぎわいを見せました。
 しかし、戦争のために無計画に掘り出した結果、その後銅を思うように生産できなくなりました。
 そしてついに、400年近くも続いた「足尾銅山」も昭和48(1973)年2月に様々な大きな歴史を残して閉山となりました。

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足尾製錬所全景

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さく岩機で岩に穴を開ける様子

鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク 第一松木橋梁

鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク (東京出版 成瀬輝男編)では、百選より足尾から三橋が選ばれている。

・第一松木橋梁(イギリス製) ・古河橋(ドイツ製) ・第二渡良瀬橋梁(国産/ピントラス橋)

この他にも古典橋梁が沢山あるので紹介する。

・仁田元水道橋 ・本山小学校跨線橋(こせんきょう) ・向間藤浄水橋 ・田元橋 ・旧小滝(抗口)橋 など貴重であり永久に保存されるべきである。

第一松木橋梁

大正3年(1914)8月26日開通 橋長56.45m 田元の北詰に架かる橋梁で形式は上路式プレートガーター(支間長22.25m×2連 9.601m×1連)で構成されている。橋桁は、明治44年(1911)に汽車製造合資会社が制作したものである。この橋梁の特異性はプレートガーターを支える二基の橋脚にあり、残存事例のない珍品であると言われている。「パテント・シャフト・アンド・アクスルトリー社」1888年の製造したものである銘板が付いてる。

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鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク 古河橋

鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク (東京出版 成瀬輝男編)では、百選より三橋が選ばれている。

・第一松木橋梁(イギリス製) ・古河橋(ドイツ製) ・第二渡良瀬橋梁(国産/ピントラス橋)

この他にも古典橋梁が沢山あるので紹介する。

・仁田元水道橋 ・本山小学校跨線橋(こせんきょう) ・向間藤浄水橋 ・田元橋 ・旧小滝(抗口)橋 など貴重であり永久に保存されるべきである。

古河橋「明治23年(1890)ドイツ・ハーコート社製」

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鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク 第二渡良瀬橋梁

鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク (東京出版 成瀬輝男編)では、百選より三橋が選ばれている。

・第一松木橋梁(イギリス製) ・古河橋(ドイツ製) ・第二渡良瀬橋梁(国産/ピントラス橋)

この他にも古典橋梁が沢山あるので紹介する。

・仁田元水道橋 ・本山小学校跨線橋(こせんきょう) ・向間藤浄水橋 ・田元橋 ・旧小滝(抗口)橋 など貴重であり永久に保存されるべきである。

第二渡良瀬橋梁

大正元年(1912)12月13日開通 橋長104.85m 切幹のところで渡良瀬川に架かる橋梁で、形式はアメリカのクーパー形プラットトラス(ピン結合 支間長46.93m×2連)と旧国道を跨いでいたガードのプレートガーター(支間長6.601m×1連)からなるで構成である。ただし、平成14年(2002)8月にプレートガーター部が外されコンクリートでボックスカルバートに改造されたことは惜しまれる。 (鉄の橋百選・鉄道ピクトリアル中川浩一 引用)

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鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク 仁田元水道橋

鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク (東京出版 成瀬輝男編)では、百選より三橋が選ばれている。

・第一松木橋梁(イギリス製) ・古河橋(ドイツ製) ・第二渡良瀬橋梁(国産/ピントラス橋)

この他にも古典橋梁が沢山あるので紹介する。

・仁田元水道橋 ・本山小学校跨線橋(こせんきょう) ・向間藤浄水橋 ・田元橋 ・旧小滝(抗口)橋 など貴重であり永久に保存されるべきである。

仁田元水道橋

足尾砂防ダム堰提から西に見える橋は、人や自動車が渡る橋ではなく、製煉所などで使う工業用水の水道管をのせる橋です。水源を松木川に求め、現在でも重要な工業用水を送る施設として使われている。

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足尾町閉町記念「足尾博物誌」より抜粋

鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク 本山小学校跨線橋(こせんきょう)

鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク (東京出版 成瀬輝男編)では、百選より三橋が選ばれている。

・第一松木橋梁(イギリス製) ・古河橋(ドイツ製) ・第二渡良瀬橋梁(国産/ピントラス橋)

この他にも古典橋梁が沢山あるので紹介する。

・仁田元水道橋 ・本山小学校跨線橋(こせんきょう) ・向間藤浄水橋 ・田元橋 ・旧小滝(抗口)橋 など貴重であり永久に保存されるべきである。

本山小学校跨線橋(こせんきょう)

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鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク 旧小滝(抗口)橋

鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク (東京出版 成瀬輝男編)では、百選より三橋が選ばれている。

・第一松木橋梁(イギリス製) ・古河橋(ドイツ製) ・第二渡良瀬橋梁(国産/ピントラス橋)

この他にも古典橋梁が沢山あるので紹介する。

・仁田元水道橋 ・本山小学校跨線橋(こせんきょう) ・向間藤浄水橋 ・田元橋 ・旧小滝(抗口)橋 など貴重であり永久に保存されるべきである。

旧小滝(抗口)橋

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鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク 田元橋

鉄(かね)の橋百選 近代日本のランドマーク (東京出版 成瀬輝男編)では、百選より三橋が選ばれている。

・第一松木橋梁(イギリス製) ・古河橋(ドイツ製) ・第二渡良瀬橋梁(国産/ピントラス橋)

この他にも古典橋梁が沢山あるので紹介する。

・仁田元水道橋 ・本山小学校跨線橋(こせんきょう) ・向間藤浄水橋 ・田元橋 ・旧小滝(抗口)橋 など貴重であり永久に保存されるべきである。

田元橋

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2007年11月17日

小滝会「足尾銅山の誇り今も絶やさず」 下野新聞11月16日掲載

小滝会「足尾銅山の誇り今も絶やさず」 下野新聞11月16日掲載

"みんな足尾を愛してる・・・・”

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足尾銅山跡 国史跡指定 下野新聞11月17日掲載

足尾銅山跡 国史跡指定 下野新聞11月17日掲載

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2007年11月18日

渡良瀬

渡良瀬

「渡良瀬」の地名の起こりは、今から1200年余前に日光を開山した勝道上人が修験の途次に、この郷に入り命名したと伝えられている由緒のある地名で渡良瀬川の起点ともなった。渡良瀬には、延命7年(788)宝増時が建立されたが、明治の初めまで新梨子村の農耕地として、静かな佇まいのまかに農家が2~3戸点在しているにすぎなっかた。明治10年(1877)になり足尾銅山は古河市兵衛の経営するところとなり、にわかに足尾全山の開発が進められ、渡良瀬は、足尾銅山運営の物資の供給基地となっていった。

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足尾町教育委員会・足尾町文化財調査委員会 発行 「足尾銅山の産業遺産」より

 

保存された渡良瀬橋

保存された渡良瀬橋

馬車鉄道が走る渡良瀬橋の架設年度は不明であ。現時点では、大正4年(1915)に足尾銅山の橋をまとめた青図集の中に収まっているので、それ以降である。

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馬車鉄道が走る渡良瀬橋は、「鉄橋」といえど、横桁・床版・高欄は木材であったので、昭和2年(1927)に木部材を鉄鋼に改修している。そして昭和10年(1935)に馴染の「コンクリートアーチ橋」に大改修している。改修の方法は、鋼製本体をそのまま鉄骨とし、トラスの垂直材を一本おきに取除き、鉄筋コンクリートで巻き込んだものである。こうした橋の改修方法は、極めて稀な工法である。しかし大改修70年が経過し老朽化が進み、新渡良瀬橋が旧橋に平行し架設された。平成10年の(1998)1月23日の開通と同時に旧橋に化粧直しが施された。

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旧渡良瀬橋の概要

形式:コンクリートアーチ橋

橋長:52.1m

有効幅員:5.4m

足尾町教育委員会・足尾町文化財調査委員会 発行 「足尾銅山の産業遺産」より

無用の長物であった製煉所の大煙突

無用の長物であった製煉所の大煙突

平成元年(1989)に操業停止となった製煉所を象徴するかのように孤高の大煙突が立っている。こ大煙突は溶鉱炉方式から反射炉に切り替える大正5年から着工された。反射炉の製煉処理能力は、日産350tとして、予算は当時約22万円であった。この時大煙突が建造された。同年2月から試験操業するが、大煙突の立上り付近の煙道で煙の詰まりが激しく、反射炉による熔鉱は失敗し大煙突はわずか2ヶ月程度で煙を吐かなくなった。

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足尾町教育委員会・足尾町文化財調査委員会 発行 「足尾銅山の産業遺産」より