黒川温泉の景色 1
新明館の露天風呂(岩戸風呂)までの景色
この頭を下げてくぐる岩、先にどんな景色があるのか・・・・・
演出を感じます。

名物の「洞窟風呂」
後藤先生が20代から、のみで掘った洞窟風呂・・・・・・・・
この雰囲気は、一度はあじわってもらいたい。

新明館の露天風呂(岩戸風呂)までの景色
この頭を下げてくぐる岩、先にどんな景色があるのか・・・・・
演出を感じます。

名物の「洞窟風呂」
後藤先生が20代から、のみで掘った洞窟風呂・・・・・・・・
この雰囲気は、一度はあじわってもらいたい。

この本との出会いが、私のlocal identity を醸成!
日本の景色が壊れていく・・・・・
黒川温泉は、すべての旅館が一致結束して統一した景観づくり「日本のふるさと」を表現することだった。
「温泉地全体を良くしてこそ、初めて各々の旅館の利益が出る」、黒川の皆が信じることが出来たから実現できた。
「こんな誇りある街を生きたい」と思っちゃいました・・・・・・・・


黒川温泉のドン 後藤哲也氏講演会
故郷を磨け!観光再生の法則


目的
ニーズの変化、多様化などによる観光客減少。大型ホテル、大手バス会社の産業再生への移行など含め低迷する観光産業。しかし地域を支える重要な産業の一つである観光。その再生なくし地域の発展はない。これからの地域の観光産業の再生へ繋がる例会とする。
事業内容
観光カリスマ100人に選ばれた、黒川温泉のドン「後藤哲也氏」をお招きし、黒川温泉の再生の法則を講演頂く。黒川温泉は、24件の旅館からなるひなびた温泉街であるが、年間150万人がおとづれる。旅行雑誌やその他媒体で、もう一度いきたい温泉の常に上位をしめている。この講演では、得に自然との調和を大切にした「日本のふるさと」を感じさせる街並を表現するまでや、量から質への本物への探究、温泉街が一つの旅館という全体を大切にする経営者、行政等との足並み、これから黒川温泉を守るための覚悟などを伺い再生のヒントを探る。
上記目的で、講演をご依頼しました。

後藤哲也氏プロフィール
黒川温泉「山の宿 新明館」「山みず木」という2つの旅館のオーナー。
1931年産まれの73歳です。阿蘇農業学校中退後、家業であった旅館業へ身を投じます。
20代で『洞窟風呂』をひとりで掘り、30代・40代では全国の観光地を巡って修行に勤しみました。1980年代半ばに黒川の大改革のリーダーを務めてから脚光を浴び始め、全国各地の旅館や自治体からアドバイスを求められるようになります。
「露天風呂づくりの達人」「景観づくりの達人」などと幾つもの異名で人々から称えられ、2003年には国土交通省が選定した「観光カリスマ百選」にいち早く選ばれました。
現在でも2つの旅館を経営する傍ら、黒川温泉全体の景観を保持することに注力され、なおかつ精力的に全国各地の旅館や自治体に出向いてはアドバイスを送り、私たちの大きな道しるべとして活躍されています。
『黒川温泉』ってどんなところ?
熊本県の南西部、大分県との県境に位置する阿蘇郡南小国町に黒川温泉はあります。阿蘇外輪山の山肌を田ノ原川が削り取った谷間に広がる黒川温泉は、木々の深い山間に、黒い瓦屋根が見え隠れする、旅館数24件のまるで隠れ里のような雰囲気をたずさえた温泉地です。黒川温泉の発祥は、その昔、病の父のためにウリを盗んだ孝行息子の首を畑の主がはねたところ、なぜか落ちていたのは地蔵の首でした。その首を安置した場所 (現在の外湯・地蔵湯)から温泉が湧き出したといわれています。温泉地としての歴史は江戸時代にまでさかのぼり、江戸期の儒学者である「頼山陽」が宿泊したとも言い伝えられています。温泉の効能は“きず湯”とよばれていたほど、切り傷に特効があるといわれており、またリューマチ、神経痛、婦人病など幅広く効き目を表します。そのためむかしは近隣に住む農家のおじいちゃん・おばあちゃんの湯治場として親しまれていました。
さて、本日この会場におられる方で、実際に黒川温泉に行ったことがある方はいらっしゃいますか?(会場のお客様に挙手を促す)
いた場合…「黒川温泉にはどのような交通手段で行かれました?」
→多分ほとんどの人は自動車かバス。
いない場合…「残念ながらいらっしゃらないようですね。」
黒川温泉はお世辞にも交通の便が良いとは言えない場所にあります。電車でいこうとした場合、もっとも近い駅からバスで1.5時間もかかります。黒川温泉を訪れる人のほとんどは自動車を利用することになるのですが、それでも最寄のインターから1時間はかかる場所にあります。このような地理条件ですので、九州に鉄道網が発達していった明治以降はいわゆる「観光」という面では忘れられた存在となり、長い長い冬の時代が続きました。
黒川温泉が再び脚光を浴びるようになるのは1980年代半ばからのことです。各旅館が一斉に始めた露天風呂作り、温泉地全体への植樹運動、黒川温泉すべての旅館の露天風呂が利用できる手形の発行など、地域全体の景観統一を含めた一連の改革により人々から注目されるようになっていったのです。その改革のリーダーが本日の講師である後藤哲也先生です。
この改革により黒川温泉の人気は年を追うごとに急上昇し、黒川温泉観光旅館協同組合によると、2003年の宿泊者は約38万人、日帰り客を含めた年間入り込み客数は約115万人に上っています。これは狭い「スポット」の温泉地としては驚異的な数字であります。また、九州では旅行雑誌「じゃらん九州発」にて『行って良かった観光地』調査で6年連続1位、2002年の日本経済新聞社主催の『NIKKEIプラス1温泉大賞』では堂々の大賞を受賞するまでに至っております。
日本観光地に対する危機感
まずはじめにご紹介することは、後藤先生が現在抱いている日本各地の観光地や自治体に対する強い危機感に関してです。先生の基本的な思想として「地域性を活かした町づくり」というものがあります。これは言葉を変えれば「地域で共通のキーワードをもつ」ということになります。黒川温泉にとってそのキーワードは「日本のふるさと」であったということです。そのため、黒川温泉では景観・建物・旅館のサービスに至るまで「日本のふるさと」を意識したものになっているとのことです。なんと道端の郵便ポストですらわざと昔の形のものにしているほどです。
翻って日本各地の観光地の様子を考えて見ましょう。京都・由布院・軽井沢…。1997年、いまから8年前に建都1200年事業の一環として建てられたJR京都駅。いろいろな立場や考え方がありますのでその賛否に関して一概に言えたことではありませんが、我々がもつ京都のイメージとは合致しない外観であることは間違いないと思います。京都が地域全体でもたなければならないキーワードは何なのでしょうか?皆さんにもなんとなく想像ができるのではないかと思います。
また、北海道のとある観光地のお話です。お土産屋をのぞくと木製の熊の置物がズラリと並んでいたそうです。北海道土産としては有名な物ですね。ところがひとつ手にとって良く見ると、なんと驚いた事にその置物は全て中国製だったのです。その観光地ではお土産の売り上げが芳しくない事を問題として取り上げていました。しかし、そのような品揃えではやはり売れるはずはないのです。その土地の特色を現したものを人々はお土産として買いたいと思っているはずです。観光に来たお客さんが何を求めているのか?何を欲しがっているのか?これは商売全般に言えることですが、そういったお客様側の要望を汲み取る心、「もてなしの心」を欠いている経営者がまだまだ多いとおっしゃっております。
生い立ちと転換点
さて、後藤先生が経営されている旅館「山の宿 新明館」には目玉となる施設があります。非常に有名ですのでご存知の方もいらっしゃると思いますが、それは『洞窟風呂』と呼ばれるものです。この『洞窟風呂』、その名のとおり洞窟の中に温泉が湧き出しているという物なのですが、これは人工的に作られたものです。後藤先生20代の時、ノミとかなずちだけで旅館のすぐ裏にある山を掘って作ったそうです。3年間ひたすら掘り続けて、なんとか人が入れるようなモノに仕上がりました。また、その後も中を拡張しながら掘り進め、現在の形になるまでには約10年の歳月を費やしたそうです。この事から『洞窟風呂を掘った男』というあだ名までお持ちになられています。
「山の宿 新明館」は後藤先生の祖父にあたる方が、明治の初め頃に創業した黒川温泉の老舗旅館です。お父上は獣医としてご活躍され、戦時下には陸軍の軍医をお勤めになりました。少年時代の後藤先生は小学校を卒業すると、お父上の職業を継ぐべく阿蘇農業学校にて獣医学を学ばれたそうです。旅館は後藤先生の祖母にあたる方が切り盛りしておりました。ところが終戦を迎え、事態は一変します。戦後の混乱の中、旅館のお客様は激減し、加えて食糧難を向かえ、後藤少年はやむなく学校を中退し、一家を支えるために働くことになりました。これが旅館業に身を投じるきっかけとなりました。その後、苦しいながらも何とか湯治客を相手に旅館を続けて行く事になるのですが、後藤先生の並ならぬ努力と熱心な勉強によって客足が次第に増えて行きました。もちろん先ほどご紹介した『洞窟風呂』の効果もあったことでしょう。後藤先生はより一層の勉強を重ねるべく全国の観光地を視察していました。その際、何度となく訪れた京都のお寺を観察していたとき、フッとある事に気がつきました。今から25年ほど前の事です。京都には色々な日本庭園があります。平安貴族が好んだ庭から、鎌倉武士の住まいに併設された庭までその歴史を感じるだけの多種多様な庭園が存在します。その中でも当時は剪定されたマツの下には池があり、鯉が泳いでいるといった典型的な日本庭園が人気を集めていました。ところが、そうした人工的につくられた庭園にだんだん観光客の足が向かなくなっている事に気がついたのです。その代わりに人々は自然の木が植えられている庭を持つ寺院に向かっていると。このことがこの後の後藤先生の人生と黒川温泉の行く末を左右することになって行くのです。
黒川温泉を立て直した日々
京都で気が付いた人の流れの変化は何を示しているのだろうか?後藤先生はこの問いに対しひとつの答えを出しました。
「都会の人たちは、ストレス解消のために自然に触れることを求めている」
この答えをもと黒川温泉を変えていくことを決意したのです。昔は体の傷や痛みを直すことを目的とした湯治場であった黒川温泉が、これを期に都会に暮らす人々のストレスによって疲れたココロを癒すための温泉地へと生まれ変わっていくのです。
後藤先生の頭の中には次のような流れが出来上がっていました。
都会人は自然を求めている
↓
黒川温泉に「本物」の自然があれば、お客さんが来てくれる
↓
そのためには温泉地全体に自然を感じさせる仕掛けが必要だ
↓
地域の旅館が一致して取り組めば、黒川全体に自然を感じる「雰囲気」ができる
↓
観光客が増え、それに比例して各旅館の利益も増える
この発想を大切に貫きました。特にこだわった部分が「黒川温泉全体で」ということです。とにかく全体で雰囲気を創らなくてはならない。もっとも大切なものはその地域の「全体像」であると。
結果として皆さんご承知のとおり後藤先生の大改革は成功しました。主な取り組みは次の3つで、「黒川温泉24件の旅館全てに露天風呂を設置したこと」、「観光客がいろいろな露天風呂に入れるように『入湯手形』の導入を導入したこと」、「自然の木である『雑木』を地域に植樹し、『日本のふるさと』を意識した統一された景観づくりを行ったこと」です。改革を成し遂げるまでの経緯に関してはここでは触れませんが、決して順調なものではなかったことは確かです。
地図にも載らないような山奥の小さな湯治場を、全国屈指の温泉地にまで押し上げた後藤哲也先生。その体験から我々にさまざまなまちづくりや会社経営へのヒントを与えてくれました。
2005年10月19日の講演会の前々日から、日光視察をお願いしました。
2005年10月17日


JR日光駅にて

日光観光案内所にて

明智平にて
2005年10月18日


鬼怒川商店街にて

鬼怒川某ホテルにて
2005年10月19日
後藤先生には、ご多忙、ご高齢にもかかわらず、過密なスケージュルで日光地区をご視察いただき
心より御礼もうしあげます。
後藤先生のアドバイス頂いた、日光の可能性を、十分に発揮できるよう邁進してまいります。


今市地区商店街にて

二宮神社にて

今市 つくり酒屋にて

足尾 愛宕下地区 はげやまにて

足尾歴史館にて


黒川温泉 新明館 日本のふるさとへの工夫を、ご紹介していきます。
なんといっても「すすけた黒」を基調とした雰囲気に、壁のいろ、阿蘇地方の昔の民家は皆こんな感じだったそうです。
そして旅館入り口までの「架け橋」、これも新明館の雰囲気を作り出すポイントの一つです。
若い女の子シャッターポイント!
新明館の桟橋の入り口。
ここは、いつも老若男女がシャッターを切ってしまうポイントです。
(入り口の傘を撮る為に撮影、ちょっとよりすぎています。)
「高齢の方が多いのでは」とおもう雰囲気ですが、、ダントツ若い女性が多いそうです。
「キャー 素敵 」・・・・・・・とか、見たことない日本のふるさとの風景に感動しているそうです。
日本人のDNAは、世代を超えて、現代の若い女性にも、懐かしさを想わせるのであろう。
新明館 照明がいい雰囲気、素朴です。
新明館2Fの廊下にあった照明です。
電気に、竹篭をかぶせてあるだけです、しかしこの雰囲気!!!
竹の創る影が、また落ち着いた時間を演出!
とうもろこしと昔の雨具が、アクセント!
黒川温泉の至る所に、ぶら下がっているです。
「昔は、どこの家も、こうしちょった!」と言わんばかり・・・
これが、素朴で、懐かしくて、あったかい。
すすけた黒に、少しずつ黄色の濃淡が違うとうもろこし、このコントラストがいいですね。
とうもろこしと昔の雨具が、アクセント!
黒川温泉の至る所に、ぶら下がっているです。
「昔は、どこの家も、こうしちょった!」と言わんばかり・・・
これが、素朴で、懐かしくて、あったかい。
すすけた黒に、少しずつ黄色の濃淡が違うとうもろこし、このコントラストがいいですね。
まちづくりへ会社設立「那須烏山」
継続的なまちづくりで地域を活性化させようと商店主や農家など市民21人からなる「まちづくり合同会社」の設立総会が10月23日行なわれた。
継続的に活動を続ける為に対価を頂く、対価を頂く為にはサービスのクオリティーを追求する、対価を払いたくなる市場を開拓していく。
言うには簡単だが、本当に難しいことである。これからの地域を担う重要なチャレンジだ!応援したい。
足尾の舟石線を走りました。NO4 佐藤 信淵 在住の地
佐藤 信淵(さとう のぶひろ)1769~1850(明和6年~嘉永3年)
「経世家」江戸の「東京」改称を提案した、幕末の経世学者。
江戸後期の経世家で農政学者。出羽国出身。父とともに奥羽、関東を遊学。江戸で蘭学、天文・測量術を学び、47歳のとき平田篤胤に師事。農政・物産・海防・兵学など多くの論説を著し、重商主義・絶対主義的な国家社会主義の構想を説く。江戸を「東京」と改称し都を置く、二都制を提唱したことでも知られる。著書に『経済要略』など。 weblioより
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