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小野崎一徳写真帖 アーカイブ

2007年04月24日

小野崎一徳写真帖 表紙

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足尾銅山400年の歴史のなか、先代の小野崎一徳(1861-1929)が残した明治・大正時代の写真から紹介していきます。
現在、私の叔父、小野崎敏著書の「小野崎一徳写真帖」足尾銅山から産業遺産としての観点から紹介してまいります。

又、現在の足尾の魅力や、グルメスポットなどを織り込みながら、運営していきます。

2007年04月26日

足尾銅山 著書 小野崎 敏

足尾銅山 著書 小野崎 敏

足尾銅山 著書 小野崎 敏は、私の叔父に当たる。
足尾の歴史を多くの方に紹介したいと、叔父に了解をえてweb上で内容を紹介する。
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はじめに

私が生まれて初めて見た写真は、おそらく祖父・一徳の肖像写真であろう。
私は昭和9年(1934)に、足尾の小野崎写真館で生まれた。その生家のニ階にある客間には、額縁のなかに入った大きな肖像写真が二つ並んでかざってあった。祖父・一徳の写真と、もうひとつは古河市兵衛のそれであった。記憶はいつごろから始まるのかわからないが、少年期からこの二葉の写真にかこまれて育っていった。家は足尾北部、古河橋ちかくの赤倉商店街の中央に位置し、製錬所の煙突がすぐちかくにあって、亜硫酸ガスの臭気が絶えることはなかった。ちかくの山は禿げ山ばかりだったが、子供たちには格好の遊び場だった。
一徳は昭和4年に没したので私は生前の出会いはないが、一徳の写した写真については時々見ることはあった。
昭和30年ごろの学生時代に、古書店で『風俗画報』増刊号の「足尾銅山図曾」を求め、そこに60枚あまり掲載されていた一徳の写真と出会った。なかには初めて見たものも多く、探し出して足尾に持ち帰りたいという志を立てて、以来、収集を始めることにした。それから50年、今までに収集したもの、借用して複写したものを合算すると手元の写真類は約1000枚になる。

黄金の国ジパングの伝説はさておき、江戸から明治にかけての日本は世界有数の銅生産国であり、最先端の金属製錬技術をもっていた。江戸期においても、生産された銅は輸出され、外貨獲得の重要な資源であった。特に明治期に入り、銅は殖産興業・富国強兵という時流のなかで生産を拡大し、日露戦争が終わった明治40年ごろには国内生産4万トンのうち3万トンが輸出され、その外貨で機械・武器などを購入して日本の近代化は進められたのである。足尾にも生産のため次々と先進技術が導入され一大産業都市と化したが、反面、鉱害や労働運動など多くの問題が出てくる。
小野崎一徳は明治16年(1883)から昭和4年まで、約45年間にわたり、足尾銅山の古河御用写真師として変転する銅山の内部と周辺を撮影した。その内容は採鉱・選鉱・製錬などの現場だけでなく、森林伐採や工作・土木分野もあり、鉱山や町の行事・冠婚葬祭、一般写真それに公害防止工事の現場記録など多岐にわたっている。
レンズを通して、メカニックな記録として残された一連の写真は、過ぎ去った時間を保存し、歴史の過程を検証する証拠物件となり得る。事実、100年間あまり埋もれていた一徳の写真を並べてみると、単に足尾銅山の歴史のみならず、明治・大正期における私どもの先輩たちによる国づくりの息吹が聞こえてくる。これらを読み解くことによって、従来ともすれば文献資料を基本として語られてきた多くの先人たちの発言や文章の情報について、その是非を確認することもできるのではなかろうか。
また、昨今、日本の近代化を支えた鉱山などの産業遺産を保存し、世界遺産として登録する活動が各地で盛んになっている。足尾には、日本の産業革命の先駆けとなった沢山の資産が残っている。また、日本で最初に実施された公害防止関連の遺産もある。本年秋、地元市民が中心となって「足尾銅山の世界遺産登録を考える会」が発足し、その準備活動も始まった。一徳の写真は、それら産業遺産の往時の様態を補完する記念写真として十分に活用できるものである。
そうした問題提起も含めて、本書をまとめてみた。


これまでに収集・複写された小野崎一徳の写真帖などは、次の通りである。
『足尾銅山古河写真帖』―明治20年以前―7枚
『足尾銅山写真帖』ー明治20年代―50枚
『足尾銅山写真集』ー第4回内国勧業博覧会出品―明治28年以前―29枚
『古河鉱業写真帖』―ベルギー・リージュ万博出品ー明治38年以前―13枚
『足尾銅山写真帖』―鉱毒予防工事現場写真―明治30年―64枚
(根利山関連写真)―明治〜昭和初年―90枚
『古河鉱業写真帖』―大正天皇日光行幸記念ー大正2年ごろー 6枚
『海江田侍従来山記念写真帖』―大正7年ごろー36枚
『社長来山記念写真帖』―大正14年ごろー46枚
『社長来山記念写真帖』―大正初年ごろー22枚
(単品写真)―明治~大正期―約100枚
(写真絵葉書)―明治~昭和初年―約600枚

2007年05月09日

第一章 古河市兵衛の足尾経営

第一章 古河市兵衛の足尾経営

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明治初頭には廃山寸前の状況にあった足尾銅山を、日本一の座に押し上げたのは古河市兵衛である。
彼は欧米の先端技術を導入し、それを活用できる人材を集めた。
銅山御用写真師・小野崎一徳が撮影した明治20年代の写真は、近代化を推し進める銅山の姿を伝えている。

古河市兵衛と足尾の出会い

古河市兵衛と足尾の出会い

のちに「銅山王」と呼ばれることとなる古河市兵衛は、天保3年(1833)、京都・岡崎村で木村長右衛門・みよの次男として生まれた。生家は大和屋という酒屋で、幼名は巳之助と称した。市兵衛が生まれたころには、生家は没落しており、豆腐の行商をするなど貧乏をしていたという。27歳の時、京都の豪商・小野組で番頭をつとめていた古河太郎左衛門の養子になって古河市兵衛を名乗る。
小野組では、市兵衛は生糸の輸出、米穀や蚕卵紙の取引などで商才を発揮して多大の貢献をする。明治になってからは、当時「鉱山屋」として知られていた岡田平蔵と組み、明治5年(1872)ごろから、官許を得て東北の阿仁・院内・尾去沢などの鉱山経営に参加、鉱業のおもしろさを実感していた。明治7年には岡田が没したので、尾去沢を除く阿仁・院内の経営は小野組が引き継ぐこととなり、市兵衛はその責任者となったのである。
ところが、同年、明治政府の為替政策の変更によって、小野組は一朝にして破錠瓦解する。ちなみに、同業者の三井組は、番頭・三野村利左衛門が井上馨など政府人脈から情報を得ており、この危機を逃れることが出来た。
市兵衛も、生糸の海外取引を通して、大蔵省租税頭であった陸奥宗光(1844~97)や同じく租税正の渋沢栄一(1840~1931)と知己になり、肝胆相照らす仲となってはいた。彼は主家を襲ったこの事件で、事業の安定には政府要人との人脈づくりが肝要であることを痛感したというが、陸奥・渋沢との関係は、のちに古河グループの形成に大きな影響を与えることとなる。小野組倒産後の事業整理のなかで、市兵衛は私財をなげうって、渋沢が創始したばかりの第一銀行が共倒れとなることを防いだ。これによって、第一銀行は窮地を脱して発展を続け、両者の関係はより昵懇のものとなった。
倒産の結果、阿仁・院内両鉱山は政府に没収されたが、市兵衛は鉱山経営をあきらめきれず、第一銀行の援助と相馬家家令・志賀直道の融資によって新潟県草倉鉱山の払い下げを受ける。古河名義でこの草倉鉱山の操業を開始したのが明治8年11月で、それが成功して、莫大な利益をあげることができた。古河財閥の興りが明治8年とされる所以である。
市兵衛は「運・鈍・根」を身上として、持ち前の信念と強運で古河財閥の創始者として日本経済界に名を残すこととなる。その基礎をつくったのが、この草倉鉱山につぐ、明治10年の足尾銅山への進出であった。
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【1】正面の山が備前楯山である。画面左側の沢が本口沢で、沢と山腹を横に走る山道のクロスするあたりに本口抗があった。そこから鉱石を運ぶ、簡易鉄道・ドコビールの軌道が見える。
(明治28年以前撮影)

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【2】画面右手中央に明治初期の本山の事務所が写っている。そのやや左手奥の煙突は子持沢(こもちさわ)の精錬所のもので、ここは古河が本山に最初につくった精錬所だった。
(明治17年以前撮影)


2007年05月10日

「足尾千軒」の繁栄と衰退

足尾銅山は、栃木県西部の渡良瀬川上流に位置し、江戸幕府成立後の慶長15年(1610)に発見された。当時の領主は日光座禅院座主であり、その許可を受けて採掘と製錬が行なわれ、翌16年には、老中で前橋藩主の酒井雅楽頭を通じて、試験的に製造した問吹銅を幕府に献上した。ちょうど、のちに第3代将軍となる家光の着袴式が行なわれる年にあたったことから、めでたがられ、幕府が直接支配する直領鉱山とされたのである。
以後の60~70年間が、江戸期における足尾銅山の全盛期であった。毎年の生産高は1300~1500トンにものぼり、江戸城・芝増上寺・上野東照宮や日光東照宮の瓦はすべて足尾の銅でつくられたという。幕府は銅の輸送のために、特に足尾から利根川の前島河岸まで銅山街道(あかがね街道)を設け、そこから江戸の御用銅蔵まで舟で運ばれた。延宝4年(1676)からは長崎・出島を通じてオランダや中国に輸出され、貴重な外貨を稼いでいる。
 そのころの足尾は「足尾千軒」と呼ばれるほどの賑わいをみせ、吹床主12軒、銅山師400人を数えた。幕府の収益も大きく、開業から元禄期(1688~1704)までのおよそ80年間で総額30万両あまりをあげたという。しかし一方で元禄期に入ると、乱掘のためその生産量は大きく減少する。さらに、銅をつくるための燃料や還元剤に大量の薪や木炭を必要としたから、近隣の山は荒れ、禿げ山となり、その結果発生した洪水によって足尾の町は大きな被害をこうむり、銅の発掘も打撃を受けた。このため、銅山師たちはたびたび幕府に山元救済を訴えた。たとえば、寛保元年(1741)には鋳銭製造の許可を申請して、翌年から5ヶ年間、寛永通宝を鋳造している。その枚数は2億枚あまりといわれ、背面に足尾の「足」字が鋳印されていたため「足字銭」と称されて、江戸・関東地区を中心に流通した。鋳銭が一般に「お足」と呼ばれるのは、この足の鋳印にあるという説も残っている。
その後も足尾の衰退は進み、文化文政期(1804~30)の初めには産出量がゼロにちかくなり、弘化元年(1844)ごろには休山状態に追い込まれてしまった。

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明治中期を代表する写真師・小川一真が撮影した古河市兵衛像。頭にはまだ丁髷が見える。小野崎一徳にもこれと酷似した写真がある。足尾歴史館蔵。

江戸期の採掘から製錬まで

足尾銅山の鉱床は約1500万~1000万年前ごろにできたものといわれ、母岸(鉱脈を取り巻く岩盤)は流紋岩で巨大な漏斗状をしている。「備前楯山」と呼ばれる高さ約1300メートル、東西南北約4000メートル四方もある母岩の無数の割れ目に、鉱脈として銅鉱石が火山活動によって沈澱したものである。江戸時代の開業から昭和48年(1973)の閉山まで、約400年にわたって採掘された銅の総量は金属換算で約82万トンにのぼり、日本一の銅山であった。ちなみに、第2位の愛媛県別子銅山は約70万トン、第3位の茨城県日立銅山は約60万トンである。
銅を製造するための主な鉱石原料は黄銅鉱であり、鉱石中の成分は銅と鉄と硫黄である。鉱石を掘り出してから、鉄と硫黄を製錬により分離して金属銅を取得する。
まず、地表に出ている黄銅鉱(露頭)を探し、露頭が見あたれば、そこから鑿と槌で掘っていき銅品位の高い鉱石だけを掘り取って叺に入れて運び出す。鉱山の採掘法としては、江戸時代から明治時代初期までにはこうした方法によっていた。露頭を掘り下げていく「堅穴法」、露頭の走行にしたがって掘っていく「溝掘法」、地中深く鉱脈を追っていく「犬下がり法」、狸が穴を掘るさまに似た「狸掘法」などがあるが、いずれも人力で、坑夫が狭い悪条件下の空間で作業した。それゆえ、酸素欠乏・湧水・照明不良のため地表にちかい鉱脈だけしか採取できなかったのである。
次に、掘り出した鉱石は一寸(約3センチ)角ほどの大きさに砕いて、鉱石の岩石部分は選別して捨て、品位に高い部分を製錬行程にまわす。
そこでは、最初に選別した鉱石を地表と薪と一緒に燃やすことで、硫黄分を酸化して亜硫酸ガスとして追い出す。この行程は「野焼き」といわれる。その後、焼いた鉱石と木炭を粘土や石で固めた炉の中に入れ、着火過熱し、さらにふいごで空気を送り込んで高温にして鉱石を溶解する。この時に鉄分は粘土や石灰と結合してからみとなり、銅分は硫黄と鉄の一部を取り込んだかわとして分離することができるのである。かわのできた状態で炉を冷やしてかわを掻き出し、かわを取り出す。この行程は「荒吹き」あるいは「素吹き」といわれる。
取り出したかわは再び木炭を加えて炉に入れられ、ふいごを使って高温にして溶解する。これによって、硫黄分の大部分は分離され、鉄分は多少の銅を含んで上に浮かぶ(浮かんだものは「ドブ」と呼ばれる)。このドブを除いて、ようやく粗銅が得られるのである。炉から取り出した粗銅は鋳型に入れる。「真吹き」あるいは「再吹き」といわれる行程である。
このような採鉱や製錬の技術は幕末期まで行なわれていた。しかし、長い年月の乱掘の結果、足尾の山々は荒廃し、露頭の掘り得る所は掘りつくし、製錬設備も老朽化して行き詰まっていたのである。


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【3】足尾の交通の中心地・渡良瀬で、荷物の集積場や事務所・社宅があった。この地で、松木川と神子内川が合流して渡良瀬川となる。
(明治20年~21年撮影)

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【4】画面左手方向に、現在の通洞近く、かつて「宿」と呼ばれた足尾町の旧来の中心地がある。銭座もおかれ、足尾を訪れた英国の外交官、アーネスト・サトウも宿の泉屋旅館に泊まっている。
(明治20~21年撮影)

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古河市兵衛の挑戦

古河市兵衛のもとに足尾銅山譲渡の話が持込まれたのは明治9年の末である。
江戸幕府が崩壊し明治になると、政府は殖産のため鉱山のすべてを接収して官営にした。足尾銅山も工部省のもとで調査が行なわれたが、明治5年、民営移行の方針が出て、疲弊した状態のまま銅山師に払い下げられた。多くの銅山師が挑戦するが好転がみられず、なかば見捨てられた状態で、このころは福田欣一が経営していた。しかし産銅は低迷を続け、福田が経営資金に窮した結果の譲渡話しだった。それを市兵衛が手に入れたのである。
当時、足尾鉱区は地表に蜂の巣のように掘り穴があり、廃山同然であった。この鉱山を譲り受けることについては古河家のなかにも異論が多かったというが、市兵衛は「あの山の下には大直利(富鉱)がある」と反対を押し切って、2万円あまりの大金を支払って入手した。明治10年のことである。その際、草倉鉱山の成功もあって相馬家から半額出資を仰ぎ、明治13年からは渋沢も参加しての三者による共同経営となる。その後、明治19年には相馬家、21年には渋沢との契約が相次いで解除され、それ以降は古河の独力経営となった。
足尾に進出した当初、市兵衛は独自に操業する下稼人から銅を買い上げる方式をとったが、赤字経営が続き、草倉鉱山の利益で補填する状態であった。
彼は、小野組時代から銅山経営の経験がある木村長七や浅野幸兵衛・鈴木誠介などを足尾に送り込んで再生をはかるとともに、共同経営者の渋沢栄一や日本鉱業界の先駆者である大島高任(1829~1901)の協力を得て、欧米の先端技術の導入とそれを活用できる人材を集める。
明治14年には運良く旧坑・鷹の巣坑で直利を掘り当て、15年には本口坑の開坑にとりかかり、16年に大鉱脈を発見した。「横間歩」と呼ばれるこの大直利は足尾銅山隆盛のもととなるものであった。明治18年には阿仁・院内両鉱山を政府から払い下げてもらい、そこにあった近代設備と人材を、草倉鉱山のものに加えて足尾に注ぎ込んだ。鉱石の産出量が増加するなか、明治17年には直利橋製錬所を新設し、18年には本山・有木坑、さらに小滝坑の開鑿を開始する。
銅生産量も明治10年には46トンにすぎなかったものが、17年には約3000トンと日本一の産銅量となり、18年には4000トン超えるにいたったのである。
東京・浅草で写真館を営む江崎礼ニの門下生・小野崎一徳(1861~1939)が、古河市兵衛の招きによって初めて足尾に足を踏み入れたのはちょうどこのころ、明治16年のことであった。以後、一徳はその死の直前まで足尾銅山の消長を記録し続ける。


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【5】簀子橋の出張所。江戸時代の旧抗があり、そのころの吹床(製錬所)や銭座も近くにあった。古河も当初は採掘したが、のちに出張所を置いた。現在の渡良瀬鉄道・通洞駅の隣地にあたる。
(明治28年以前撮影)

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【6】明治17年に採用された、本山・本口抗のドコビール鉄道。画面中央の下端近くに、その第2ステーションがある。右奥に見える山が、備前楯山の頂上である。
(明治16~20年撮影)

本山・本口抗口の納鉱場写真

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【7】本山・本口抗口の納鉱場。坑内から搬出した鉱石は、いったんここに収納される。明治16年、大鉱脈「横間歩大直利」が発見されたが、正面建屋の開口部がその坑道入口の本口抗である。
(明治16年~20年撮影)

製錬所の野焼き鉱場写真

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【8】製錬所の野焼き鉱場。明治30年に禁止されるまで、硫化鉱石の処理に不可欠のため、足尾でも鉱石の野焼きが行われていた。煙害のもとで、大量の薪も必要とした。
(明治16~20年撮影)

2007年05月14日

新技術の導入

足尾銅山には、新しい学問や技術の成果が次々と導入された。
まず採鉱では、問題は鉱床の深部を採掘するための堀鑿・通風・排水・運搬にあった。明治18年に鑿岩機と爆薬が導入された。また、同年には通風・排水・運搬の幹線となる大通洞の開鑿が着工された。延長2882メートルにおよぶ通洞は11年後の明治29年に完成する。
明治17年には松木川をまたいで、赤倉と向原の間に木橋・直利橋(古河橋)が架けられた。橋は明治20年の松木の大火で焼け落ちたが、ドイツ製の鉄橋を高田商会に発注し、日本で一番古い道路用の軌道・歩道共用鉄橋として明治23年に復活した。この鉄橋架設工事に加えて、日光側の細尾と足尾・地蔵坂間の運搬手段としての鉄架空索道(空中ケーブル)、間藤水力発電所、水套式溶鉱炉がこの時期に完成する。これらの工事は「足尾銅山の四大工事」と呼ばれている。

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【9】この直利橋は明治17年に架けられた。20年の大火で消失し、23年に同じ場所に「足尾4大工事」のひとつとされるドイツ製の鉄橋・古河橋が完成した。(明治17~20年撮影)

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【10】明治17年、現在地に直利橋製錬所が建設された。30年に小滝製錬所が廃止されると、合体して「本山製錬所」と呼ばれるようになった。画面左手下に、まだ木造の直利橋が写っている。(明治17~20年撮影)

採掘された鉱石から品位の高い精鉱を選んで製錬原料とする工程を選鉱という。ここでも新技術が導入された。当初は選鉱婦が手で選別する手選という方法をとっていたが、足尾銅山ではいち早く、鉱石の比重の差などの物性を利用する機械選鉱を採用したのである。その動力に電力を使用したのは日本では足尾が初めてといわれ、明治16年ごろから機械化が実施されている。
製錬では、明治26年に米国から最新のベッセマ-転炉技術が導入された。これにより、熔鉱炉と組み合わせて、操業時間の短縮と燃料や還元剤の低減に成功する。導入に際しては別子銅山から招かれた塩野門之助が米国に出張し、現地で確認実習している。世界でも二番目という足尾の転炉製錬は、それまで30日を要した工程がわずか2日間に縮まるという画期的なものだった。
そのほかでは、明治22年に東京・本所熔洞所で開始された日本初の電気分銅、明治25年に足尾事業所に敷設された電話、鉄架空索道以外の運搬手段としてのトロッコやフランス製の簡易鉄道のドコビール・電車の敷設、燃料面では薪・木炭からコークスへの転換など、新技術の導入例は枚挙にいとがまない。
この結果、足尾銅山の産銅量は安定し、6000トン台以上の生産が明治末年まで続いた。おりしも、世界の銅市場は拡大を続けていた。電気・電信電話事業の発展や、造艦・弾薬用の軍需のためである。古河を筆頭とする日本の銅産業も発展をとげ、その生産の8割前後を輸出に向け、生糸・錦糸につぎ、石炭と並んで外貨の獲得に大きく貢献したのである。しかし一方で、足尾銅山においでは生産量の激増が渡良瀬川沿岸の鉱毒被害をもたらし、次章で述べる明治30年の鉱毒予防大工事へとつながっていくことになる。


足尾銅山架空索道図

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足尾銅山に投入された先端技術

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市兵衛をめぐる人々

 古河市兵衛の鉱山事業成功の鍵は、ひとつにはその巧みな人脈づくりにあった。特に陸奥宗光や渋沢栄一からは、会社運営、新技術の情報、人材の採用・活用などの面で強力なサポートを受けている。彼らとの親交の一部は先に触れたが、ここでより具体的に市兵衛を支援した人々を見ていこう。
 渋沢栄一は、明治政府成立の前年である慶応3年(1868)に、徳川昭武に随行して渡仏している。この時、彼はパリ万博を見学、さらにヨーロッパを巡歴した経験を持ち、海外事業にも精通していた。彼は、市兵衛に福岡健良を紹介し、製錬と精銅の技術導入を担当させる。また、パリ万博に出品されて好評だった簡易鉄道・ドコビールを、平野富二(石川島造船創立者)を通して、足尾に持ち込んだ。薪・木炭の代替品としての、コークスの製造工場を東京・深川に建造することを勧めたのも渋沢である。
 大島高任は、幕末の安政4年(1857)、南部半釜石で高炉による出銑を日本で初めて成功させた人物として名高い。明治4年には岩倉使節団に同行し、欧米視察旅行ののち、ドイツ・フライブルク鉱山大学に留学した。日本鉱業界の初代会長でもあり、内外の鉱山事情に精通していた。
 大島は市兵衛とは数年間ではあるが、軽井沢銀山を共同経営し、佐渡金山鉱山長時代には、米国・コーネル大学に留学する前の市兵衛の養子・潤吉(1870~1905)に鉱山学の指導をしている。そして、釜石時代の部下であり、外遊経験のある山田純安を、古河の近代化要員として送り込んだ。

新技術①鑿岩機

 鉱石や石材を採掘するための機材としては、昔から鑿とハンマーが使用されていた。
 岩石に孔をあけ、その中に火薬を入れて爆破するいわゆる「発破」方式には、1613年、ドイツ・フランスベルク鉱山で初めて実施された。日本の慶長18年のことである。
 記録によれば、岩石に孔をあける鑿岩機の発明は、1813年、英国のトレビシックがピストンドリルに蒸気動力による回転力を利用したのが最初とされている。一方、鑿を蒸気力で上下に落下させる鑿岩機を発明したのは、ミシンで有名なシンガー兄弟であり、1838年のことだった。それを圧縮空気で動かす空気動鑿岩機に発展させたのが、1844年、英国のブルントンである。その後、1851年、米国のファウルが圧縮空気式鑿岩機の特許を取得する。

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大正時代、足尾銅山の採掘風景

 1866年、スウェーデンのノーベルが爆薬を発明したのを契機に、米国のバーリーが先のファウルの特許を買い取って改良し、米国で最初の空気打撃式鑿岩機の実用化に成功した。1871年にはサンドビック社やインガソル社も鑿岩機の製造を開始するなど、欧米各国で実用化が加速した。
 日本で最初に鑿岩機を使用したのは官営佐渡金山である。明治9年(1876)にインガソル社のロックドリルが採用されたといわれている。
 明治15年には、官営阿仁鉱山でシュラム式鑿岩機が使用された。古河市兵衛が阿仁鉱山の払い下げを受けることにより、明治17年末ごろには、この鑿岩機が足尾銅山にも持ち込まれることになる。
 手持ち式鑿岩機が開発されたのは明治34年、フロットマン社が最初であり、サンドビック社やインガソル社がそれに続いた。
 しかし、外国製の手持ち式は大きいので、日本人の体格に適した小型のものが足尾工作課主任・川原崎道之助によって開発された。外国の機械を改良し、性能を向上させつつ小型化するという日本人の製作風土というものは、この時代にもあったことがわかる。この鑿岩機は、製造されたのが大正3年(1904)であったことから「足尾式3番型」と名づけられた。以後も、「足尾式」なるものの改良は続けられて、現在でも古河の系列会社から世界に向けて製造・販売されている。
 足尾銅山は、鑿岩機においても先駆けの地であった。
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「足尾式」と呼ばれた手持ち式の鑿岩機

陸奥宗光との交流

古河市兵衛と陸奥宗光の交流は小野組時代に始まり、のちに陸奥の次男・潤吉が市兵衛の養子になるほどの関係だった。
明治政府の発足後、一部士族の処遇をめぐって各地に乱が起こるが、そのなかで最大のものは西郷隆盛による西南戦争であろう。当時、元老院議官の職にあった陸奥も、明治10年のそれら新政府転覆計画に荷担したとの疑いで逮捕され、山形と仙台の監獄に、明治15年までに6年間収監される。この時、市兵衛は献身的にその面倒をみたのである。陸奥は獄中での毒殺を恐れて、監獄の食事には箸をつけなかった。一方、市兵衛は小野組の奥州担当であったし、その後も東北の鉱山を手がけていたため山形や仙台の有力者に知己が多かった。彼は山形の旅館経営者・後藤又兵衛に頼み、陸奥への食事を毎日差し入れたという。
出獄後の陸奥は、一年間の静養ののち、新知識吸収のため明治17年から19年にかけて欧米に遊学する。その費用一万円あまりの約半分は伊藤博文・井上馨・山県有朋らの奔走で政府下付金とされたが、不足分のうち2500円を負担したのも市兵衛だった。なお、渋沢も1500円を出している。
外遊中の陸奥は、市兵衛の恩義にこたえるべく、諸外国の産銅状況に関する最新情報を古河宛に伝えている。さらに、ドイツ・シーメンス社との技術交流に協力したり、英国の外交官で幕末時代以来の友人であったアーネスト・サトウ(1843~1929)とのパイプを通じて最新技術導入の仲立ちをし、英国のジャーデン・マゼソン商会を介しての排水ポンプなどの機械類の手配を援助したのである。


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明治32年の古河市兵衛(中央)と幹部たち。前列左から3人目が古河潤吉、そのうしろが近藤陸三郎である。撮影者不明。

二代目・潤吉と原敬

陸奥の次男・潤吉が、当時まだ実子のなかった市兵衛の養子となったのは明治6年のことである。古河家には13年に入家している。
米国留学から明治25年に帰国後、潤吉は足尾銅山に勤務した。30年の鉱毒予防大工事に際しては、渋沢栄一の第一銀行に資金援助を求めて責任者として完工にこぎつけるとともに、古河の事業を見直して会社制度として専務理事に就任する。明治36年の市兵衛の没後、二代目として社業を支えたが、特に日光・大谷川の水力発電計画を実行、日光精銅所において電解・製線を行なって現在の古河電工の基礎づくりをしたことが特筆される。
潤吉は、明治38年には古河鉱業会社を設立してその社長に就任した。また、同年1月、市兵衛の実子であった義弟・虎之助(1887~1940)を自身の養子とし、その年の12月、わずか36歳で死去した。
この二代目・潤吉、三代目・虎之助の社長時代に、2年間ほどではあったが、副社長の職にあったのがのちに首相となった原敬(1856~1921)である。明治38年4月2日の彼の日記には「余は副社長となり、潤吉社長となる。但し潤吉病気に付余は一切の事を代表処理する事となせり」とあり、当時の古河側の苦境がうかがえる。原は陸奥宗光の知遇を受け、農商務大臣時代の陸奥に仕えて秘書官をつとめていた。市兵衛の人脈づくりがここにも活きていたといえよう。なお、古河虎之助の夫人は西郷家から迎えられている。

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明治41年の幹部たち。第2列目中央が3代目・古河虎之助、その向かって左が近藤陸三郎、右が木村長七、左うしろに山口喜三郎の顔が見える。
撮影者不明。

近代化を支えた技術陣

「明治年間の古河といえば、産業発展の牽引車といってよい。創始者の古河市兵衛は明治10年廃坑同然の足尾銅山を買収して再開発に成功するが、その後明治23年12月には、渡良瀬川の上流松木川に間藤発電所を完成させた。わが国電力史の1ページを飾る日本最初の水力発電所である。古河は当時の技術系学生にとって、いまのソニーに匹敵する魅力いっぱいの就職先だったわけだ」(井深大・盛田昭夫『日本人の遺言』より)
ソニーの創始者である井深大の父・甫は、東京高等工業専門学校電気科学科を卒業して古河鉱業に入社し、水力発電や電気分銅を担当した。井深はその父の就職した古河鉱業のことを、自著のなかでこう書いている。
足尾銅山の技術導入による近代化は、古河が先発した草倉鉱業の福岡健良などの技術陣によって始められた。続いて、明治17・18年に政府の鉱山民営化政策によって古河が払い下げを受けた、阿仁・院内鉱業のメンバーがそれを担ったのである。両鉱山は、ともに官営時代に欧米の近代設備を導入し、お雇い外国人の指導下で工部大学などで高等教育を受けた新鋭が働いていた。古河は設備一式とそれらの技術陣を一体で譲り受け、足尾に投入した。近藤陸三郎(のちに足尾鉱業所長、古河合名会社理事長)・狐崎富教・松下親業・仙石亮・島田研六・牧相信などの人々である。設備だけでなく、現場技術者も一緒に移籍することによって足尾の技術者が向上し、近代化に拍車がかかる。
その後も山口喜三郎(東芝初代社長)・渋沢元治・沖龍雄・小田川全之・山田純安・塩野門之助・玉村勇助(玉村工務店創立者)などが続き、井深の父・甫も入社することとなるのである。
古河市兵衛は特異な個性をもった人物であり、自身も無学で鉱山のことを勉強したことがない。しかし、新しい技術や機械を進んで取り入れ、新任技術者の意見を採用し、外遊もさせ、導入のための費用を惜しまなかった。それゆえ、有能な人材が古河のもとに集まり、実力を発揮したのである。
古河の創始期の本店会議に集合した幹部たちの写真が残っている。明治32年と41年のものだが、そこには先にあげたような錚々たる顔ぶれが並んで写っている。

アーネスト・サトウの述懐

日本の近代化は、江戸幕府の鎖国政策によって欧米より200年ほど遅れたといわれるが、維新開国とともに産業革命で完成された技術をいち早く取り入れて追いつくことになる。その縮図のひとつが足尾であり、小野崎一徳の写真によってそれを見ることができる。
幕末から明治期に日本に滞在し、日本の近代化の様子を見つめていた著名な英国外交官のアーネスト・サトウが、足尾銅山を見学した時の印象を明治19年7月31日の日記に残している。
「日本は西洋文明を丸ごと導入する能力をもつ、アジアにおける唯一の民族である。」
このサトウの足尾行きは古河市兵衛が陸奥宗光の帰朝祝いを同地で開いたためであり、陸奥夫妻、渋沢栄一、後藤象二郎などが同行していた。なお、サトウはその後、足尾で起こった鉱毒事件の情報を知っていて、明治30年には当時の農商務大臣であった榎本武揚に現地視察を勧めており、問題の処置についても陸奥や市兵衛に助言を与えていたという。
鉱山事業は産業の原点であり、土木・建築・機械・電機・化学と現在は多角化した技術領域を当時の鉱山技術者はすべて総括していた。足尾銅山のみならず、当時の各鉱山からは現在の「技術立国」につながる技術が生長して、新しい企業が育ったのである。
足尾銅山の系譜からは、古河電工・富士電機・富士通・横浜ゴム・日軽金などが誕生した。人脈からは、東芝・日立・ソニーにつながる、それも単に技術陣だけでなく多くの経営陣が巣立っている。
古河市兵衛は明治36年4月5日、胃潰瘍で72歳の生涯を閉じた。現在は東京・麻布の光林寺で眠っている。
彼の葬儀は足尾でも執り行われ、図版46はその様子を写したものである。式場となった専念寺は明治22年に建てられたが、昭和15年(1940)の大火で焼失し、今は往時の面影はない。
市兵衛は古河の会社ロゴ<やまいち>マークを定めた。それは「山一番」ではなく、「山一筋」という意味を込めたものといわれている。直筆の書簡や愛用の煙草入れなどの市兵衛の遺品は、現在、ご子孫である木村家の好意で足尾歴史館に寄託され、その「山一筋」を検証する小野崎一徳の写真とともに展示されている。

直利橋製錬所の薪揚げ場写真

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【11】直利橋製錬所の薪揚げ場。画面に見えるのは松木川で、その上流から木材を流し、
ここでせき止めて、ケーブルカーの一種であるインクラインを使って製錬所に揚げた。
(明治20~21年撮影)

本山・有木抗口の馬車鉄道写真

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【12】本山・有木抗口の馬車鉄道。何人かがかぶっている山高帽子は運搬夫用のものと思われる。
馬車鉄道は、抗口から少し入った地点まで敷設されていた。
(明治28年以降撮影)

電気機関車の試験運転写真

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【13】銅山構内での電気機関車の試験運転。明治24年からテストされ、30年から坑内に本装備された。
1台は鉱石を、1台は生活物資を積んだ台車を引いているようだ。
(明治28年以前撮影)

間藤水力発電所写真

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【14】明治23年12月完成の間藤(まとう)水力発電所。画面左手の山肌に見える導水管は落差が30メートルあった。
現在、導水管の一部と煉瓦土台が残っている。「足尾4大工事」のひとつ。
(明治28年以前撮影か)

2007年05月16日

新技術②発電

  新技術②発電

 明治10年代から20年代の前期においては、機械を動かす原動機は、英国のワットの発明による蒸気力を動力とするものが中心であった。
 その蒸気を発生するボイラーは薪材を燃料としたため、森林の伐採を加速させた。しかし、足尾では燃料を石炭に代替するには限界があったため、銅山の動力源として水力および電気力を活用することが山林保護上、絶対条件であった。そうした事情について、明治30年(1897)4月刊行の高岩安太郎『足尾銅山景況一班』が触れているので、以下に抜粋してみる。
「現今当山鉱業上全般の諸機械を運転するにおよそ一千八百馬力の原動力を要す、仮に之をことごとく蒸気力によるとせんか年々巨額の燃材を要し従て之に供給する山林は忽ち欠乏を告くるのおそれあり、加へて坑内採掘の業に於る年を逐って深遠の根底に掘進するに従い、蒸気力を用ゆるときは到底揚木・捲揚・送風等の機械を充分運転せしむること難きにより、勢い水力電気応用の必要を生かしたるか故に明治22年始めて電気技師独逸人を聘し、トルビン式水車、シーメンス式発電機を設置し坑内諸機械の運転に供したるに至極良結果を得たるにより、抗野内外を問わす爾来専心之か拡張を図り為に大に薪材の消費を節し今や冬期4ヶ月間の十中の七は水力発電の便によることとなれり」
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間藤発電所の外観。明治28年以前の撮影。

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松木地区の水力発電用のパイプライン。明治23年ごろ。

日本初の発電所

    日本初の発電所

 世界で最初の水力発電は1882年、米国のウィスコンシン州アップルトンに建設されたものである。ヨーロッパでは、それから数年後にドイツのフランクフルト・アム・マインにシーメンス社が建設し、1889年に試運転が始まった。
 一方、火力発電は水力より3、4年前に始まっている。日本では明治21(1888)〜23年に関西・東京の電燈会社が導入して、開業したばかりである。古河でも、明治21年、東京・本所熔銅所にシーメンス社から火力発電設備を導入していた。
 シーメンス社はいまだ試行中水力発電設備の採用を古河に働きかけ、明治22年に足尾・間藤水力発電所の建設に着工、翌23年12月に完成させた。その際、古河側は、発電が不成功の場合は代金を支払わないという一札をとったという。こうして日本で最初の産業用大型発電所が誕生した。営業用としては24年11月に琵琶湖疎水を利用してつくられた京都・蹴上発電所があるが、足尾より一年後のものである。
 発電用水は、渡良瀬川源流の松木から約3キロの距離を、断面「3尺(約91センチ)四方」の木製の大樋を敷設して間藤まで運んだ。また段差は約30メートルであった。それ以降、下の表(※印が間藤発電所のもの)に示したように、明治30年までに足尾地区には十数ケ所に水力発電所が建設されている。
 しかし、足尾地域の河川の水量では発電量に限界があった。そこで中禅寺湖を水源とする大谷川やその他の河川の水利権を買収し、明治36年から別倉・細尾地区で発電所を建設した。その電力を利用して、日光精銅所で精銅を行なうこととなる。
 なお、火力発電も水力発電の非常用として、明治20年には本山発電所、32年には製錬発電所が建設されている。
 古河は足尾での薪材節減という鉱害防止面での発想から水力発電のパイオニアとなるが、電力活用事業の拡大で人材が集まり、事業も古河電工・富士電機・富士通信機等々、底辺が広がっていく。電気・電力・情報市場の展開にあわせて、銅地金の供給や市場の電線やモーターの需要量も増加するなどの副次的効果もあった。さらには、のちの富士通・東芝・日立・ソニーなどにつながる人材を輩出することとなったのである。
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足尾地区の水力発電所一覧。(高岩安太郎『足尾銅山景況一班』より)

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間藤発電所の内部。撮影は明治28年以前。

水套式熔鉱炉の内部写真

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【15】直利橋製錬所の水套式熔鉱炉の内部。大型熔鉱炉の計画が進められ、明治23年12月に新式熔鉱炉8基が完成し、製錬法は一新された。「足尾4大工事」のひとつ。
(明治28年以前撮影)

細尾峠付近の架空索道写真

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【16】足尾と日光の間に位置する、細尾峠付近の架空索道(鉄索)。製品の運び出しやコークスの搬入などを目的として明治23年に架設された。「足尾4大工事」のひとつ。
(明治24年頃撮影)

直利橋製錬所と本山写真

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【17】直利橋製錬所と本山の方向を望む。画面中央やや左手の鉄橋・古河橋はできているが、明治30年の鉱毒予防工事による脱硫塔はまだ見られない。橋の手前が赤倉広場である。
(明治20年代撮影)

本山の抗部詰所写真

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【18】本山の抗部詰所。画面中央、馬車鉄道の向こう側の建物がそれで、ここで作業員の管理や監督にあたった。さらにその右手奥には選鉱場が見えている。
(明治20年撮影)

直利橋製錬所の全景写真

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【19】煉瓦造りの煙突が林立する直利橋製錬所の全景。これらの煙突が、明治30年の鉱毒予防工事の命令で脱硫塔に一本化された。図版【20】の水套式熔鉱炉の建屋が写真中央に見える。
(明治28年以前撮影)

熔鉱炉の外観写真

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【20】直利橋製錬所の熔鉱炉の外観。図版【15】の水套式熔鉱炉は、この時代の最先端を行く洋風建物内に設置されていた。
(明治28年以前撮影)

受鉱場の光景写真

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【21】鉱石を下稼人などから買い取る受鉱場の光景。画面からは、鉱石は生のものだけでなく、すでに焼かれたものもあったことがわかる。
(明治20年代撮影)

手選鉱場の光景写真

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【22】手選鉱場の光景。画面中央の男が粗鉱を運び込み、選鉱婦たちが精鉱・尾鉱を分けている。左手奥には、次の工程である製錬へと運ぶ男たちが待機している。
(明治20年代撮影)

選鉱場の内部写真